十善法語 / 巻第五・不綺語戒
晉書ニ。孝武帝ノトキ。張貴人寵冠後宮。時年近三十。帝戯之云。汝以年當廢矣。吾意更屬少者。已醉寢清暑殿。貴人使婢以被蒙帝面而弑之ト。コレ等看ヨ。一言ノ戯カ身ヲ害スルシヤ。史記周本紀ニ。褒姒不好笑。幽王欲其笑。萬方故不笑。幽王爲烽燧大鼓。有寇至則擧烽火。諸侯悉至。至而無寇。褒姒乃大笑。幽王說之。爲數擧烽火。其後不信。諸侯益亦不至。後西夷犬戎攻幽王。幽王擧烽火徴兵。兵莫至。遂殺幽王驅山下。虜褒姒。盡取周賂而去ト。古今聖代ト稱スル周カ此時ヨリ衰テ再ヒ振ハスト云コトシヤ。
新字:晋書ニ。孝武帝ノトキ。張貴人寵冠後宮。時年近三十。帝戯之云。汝以年当廃矣。吾意更属少者。已酔寝清暑殿。貴人使婢以被蒙帝面而弑之ト。コレ等看ヨ。一言ノ戯カ身ヲ害スルシヤ。史記周本紀ニ。褒姒不好笑。幽王欲其笑。万方故不笑。幽王為烽燧大鼓。有寇至則挙烽火。諸侯悉至。至而無寇。褒姒乃大笑。幽王説之。為数挙烽火。其後不信。諸侯益亦不至。後西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵。兵莫至。遂殺幽王駆山下。虜褒姒。尽取周賂而去ト。古今聖代ト称スル周カ此時ヨリ衰テ再ヒ振ハスト云コトシヤ。
書き下し
晋書ニ。孝武帝ノトキ。張貴人寵冠後宮。時年近三十。帝戯之云。汝以年当廃矣。吾意更属少者。已酔寝清暑殿。貴人使婢以被蒙帝面而弑之ト。コレ等看ヨ。一言ノ戯カ身ヲ害スルシヤ。史記周本紀ニ。褒姒不好笑。幽王欲其笑。万方故不笑。幽王為烽燧大鼓。有寇至則挙烽火。諸侯悉至。至而無寇。褒姒乃大笑。幽王説之。為数挙烽火。其後不信。諸侯益亦不至。後西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵。兵莫至。遂殺幽王駆山下。虜褒姒。尽取周賂而去ト。古今聖代ト称スル周カ此時ヨリ衰テ再ヒ振ハスト云コトシヤ。
現代語訳
晋書に、孝武帝の時、張貴人の寵愛は後宮で第一であった。時に年は三十に近かった。帝がこれに戯れて言った、おまえは年からいえば廃されるべきだ、わたしの心はもっと若い者に移っている、と。帝が酔って清暑殿で寝ると、貴人は侍女に命じて布団で帝の顔を覆わせ、殺してしまった、とある。これらを見よ。一言の戯れが身を害するのである。史記周本紀に、褒姒は笑うことを好まなかった。幽王はその笑顔を見たいと思い、あらゆる手を尽くしたが、やはり笑わなかった。幽王は烽火と大太鼓を設け、敵が来ればのろしを挙げることにしていた。(あるとき戯れにのろしを挙げると)諸侯がことごとく駆けつけたが、来てみると敵はいなかった。褒姒はそこで大笑いした。幽王はこれを喜び、何度ものろしを挙げた。その後、諸侯は信じなくなり、ますます来なくなった。後に西夷の犬戎が幽王を攻めた。幽王はのろしを挙げて兵を召したが、兵は来なかった。ついに幽王を驪山のふもとで殺し、褒姒を捕らえ、周の財宝を奪い尽くして去った、とある。古今に聖代と称えられる周が、この時から衰えて再び振るわなかったということである。
解説

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『十善法語』巻第七・不兩舌戒此善悪報応。智者ノ小心翼翼トシテ。終ニ聖慧明ヲ得ル処シヤ。愚人モ終ニ非ヲ改メ過ヲ悔ヰ。闇ヨリ明ニ趣ク処シヤ。声聞乗ノ人ノ厭背シテ禅定智慧ヲ発スル基シヤ。菩薩乗ノ人ノ大慈悲心相応スル処シヤ。此生死業果ナクハ一切賢聖モ大道ヲ窮ルコトナク。諸仏出世シテ衆生ヲ利益シタマフコトナキシヤ。真正ノ道人此中ニ実相ニ達スル。果ヲ見テ因ニ達スル。是ナク非ナク。得ナク失ナシ。此身此ニ在テ逈然トシテ世外ニ遊フ。因ヲ看テ果ニ通スル。自ナク他ナク。縛ナク脱ナシ。唯善相応シテ常ニ世人ヲ利益スルシヤ。
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史記 李将軍列伝諸々の広の軍吏及び士卒或いは封侯を取る。広嘗て望気の王朔と燕語して、曰く、「漢の匈奴を撃ちしより広未だ嘗て其の中に在らざることあらず。而るに諸部の校尉以下、才能中人に及ばず、然れども胡を撃つの軍功を以て侯を取る者数十人。而して広は人に後れず。然れども尺寸の功の以て封邑を得る者無きは、何ぞや。豈に吾が相当に侯たるべからざるか。且つ固より命なるか」と。朔曰く、「将軍自ら念へ。豈に嘗て恨む所有るか」と。広曰く、「吾嘗て隴西の守と為る。羌嘗て反す。吾誘ひて降す。降る者八百余人。吾詐りて同日に之を殺す。今に至るまで大いに恨むは独り此のみ」と。朔曰く、「禍は已に降れるを殺すより大なるは莫し。此れ乃ち将軍の侯を得ざる所以の者なり」と。後二歳、大将軍・驃騎将軍大いに出でて匈奴を撃つ。広数々自ら行かんことを請ふ。天子以て老いたりと為し、許さず。良久しくして乃ち之を許し、以て前将軍と為す。是の歳は、元狩四年なり。広既に大将軍青に従ひて匈奴を撃ち、既に塞を出づ。青虜を捕へて単于の居る所を知り、乃ち自ら精兵を以て之に走り、而して広をして右将軍の軍に并せて、東道より出でしむ。東道は少しく回遠にして、大軍の行くに水草少なく、其の勢屯行せず。広自ら請ひて曰く、「臣の部は前将軍為り。今大将軍乃ち徙して臣をして東道より出でしむ。且つ臣結髪より匈奴と戦ふ。今乃ち一たび単于に当たるを得たり。臣願はくは前に居り、先づ単于に死せん」と。大将軍青も亦陰かに上の誡めを受く。以為へらく李広は老いて、数奇なり、単于に当たらしむる毋かれ、恐らくは欲する所を得ざらんと。而して是の時公孫敖新たに侯を失ひ、中将軍と為りて大将軍に従ふ。大将軍も亦敖をして与に倶に単于に当たらしめんと欲す。故に前将軍広を徙す。広時に之を知り、固く自ら大将軍に辞す。大将軍聴かず。長史をして書を封じて広の莫府に与へしめ、曰く、「急に部に詣れ。書の如くせよ」と。
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『驢鞍橋』卷中又云はく堂塔を立置ける事は、衆生済度の方便有難き事也と書いたは、我行脚の時、辻堂に立寄り、不図意に乗りたるに仍て書く也。又義を守るの段に、危ふきに望んで変ぜず動ぜざるは義也と云ふ処をは、因果の薬を用て守りたるか好き也。喩へは何たる苦来り横難横死に逢ふも知らなんだが、我に此の因果こそ有りつらん、よき借銭払なりと思ふへし。総而因果次第よと守り行かば、何事にも動すべからすと也。
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『修証義』第一章 総序今の世に因果を知らず。業報を明らめず。三世を知らず、善悪を弁へざる邪見の党侶には群すべからず。大凡因果の道理、歴然として私なし。造悪の者は堕ち。修善の者は陞る、毫釐も貳はざるなり。若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。
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『驢鞍橋』卷上一日因果の理を破る者に示して曰く、我人を打てば人亦我を打つ、人に能く向へは人亦我によし。是れ眼前の道理なり。其上三時業報の因果歴然の仏説明也。然るに仏説を信せぬは、其方は仏より上なり、近頃珍しき人也。亦彼の者誦経すれば口が成仏仕るやと云ふ。師曰、先づ口なりとも成仏するかよきなり。総して今時勤めは心に有りて業にあらすと云ふ者錯多しと也。
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『正法眼蔵随聞記』巻一或時奘問て云く、如何是不味因果底道理、師云く、不動因果なり、云く、なんとしてか脫落せん、師云く、因果歴然なり、云くかくの如くならば因、果を引起すや、果、因を引起すや、師云く、総てかくの如くならばかの南泉の猫児を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず、便ち猫児を斬却しおはりぬ、後に趙州頭に草鞋を戴きて出たりし、亦一段の儀式なり、