顔氏家訓 / 風操
吾嘗問周弘讓曰:「父母中外姊妹、何以稱之?」周曰:「亦呼爲丈人。」自古未見丈人之稱施於婦人也。吾親表所行、若父屬者、爲某姓姑、母屬者、爲某姓姨。中外丈人之婦、猥俗呼爲丈母、士大夫謂之王母、謝母云。而陸機集有與長沙顧母書、乃其從叔母也、今所不行。
新字:吾嘗問周弘譲曰:「父母中外姊妹、何以称之?」周曰:「亦呼為丈人。」自古未見丈人之称施於婦人也。吾親表所行、若父属者、為某姓姑、母属者、為某姓姨。中外丈人之婦、猥俗呼為丈母、士大夫謂之王母、謝母云。而陸機集有与長沙顧母書、乃其従叔母也、今所不行。
書き下し
吾嘗て周弘譲に問いて曰く、「父母の中外の姊妹は、何を以て之を称せん」と。周曰く、「亦た呼びて丈人と為す」と。古より未だ丈人の称の婦人に施すを見ざるなり。吾が親表の行う所は、若し父に属する者は、某姓の姑と為し、母に属する者は、某姓の姨と為す。中外の丈人の婦は、猥俗呼びて丈母と為す。士大夫は之を王母・謝母と謂うと云う。而るに陸機の集に長沙の顧母に与うる書有り。乃ち其の従叔母なり。今行われざる所なり。
現代語訳
私はかつて周弘譲に尋ねた。「父方母方のいとこにあたる姉妹は、何と呼べばよいでしょうか」。周は言った。「これも『丈人』と呼びます」。昔から「丈人」という呼び方が女性に用いられた例を見たことがない。私の親戚が行っているのは、父方の者なら「某姓の姑」とし、母方の者なら「某姓の姨」とすることである。父方母方の年長者の妻は、俗にはこれを「丈母」と呼ぶ。士大夫は「王母」「謝母」というふうに姓を付けて呼ぶという。ところが陸機の文集には「長沙の顧母に与うる書」があり、これは彼の従叔母のことである。今では行われていない。
解説
呼び方が分からないときに、当代の学識者に尋ね、答えに納得せず、自分で先例を調べ、身内の実践を採用する。この一段には、顔之推の考証の型がそのまま出ています。権威ある人の答えを聞いても、「古より未だ見ず」と根拠を確かめ、退けている。そのうえで代案を出し、さらに陸機の用例を引いて、それが今は行われていないことまで記す。分からないことに出会ったときの手順として学べます。人に聞く、根拠を確かめる、自分の周りの実践を見る、過去の用例を調べる、そして今どうなっているかを確認する。聞いて終わりにしないという一点が違いを生みます。
この章句が説くこと
周弘譲丈人の称某姓の姑と姨聞いて終わりにしない
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『顔氏家訓』風操古人は皆な伯父・叔父と呼ぶ。而るに今世は多く単に伯・叔と呼ぶ。従父の兄弟姊妹已に孤にして、其の前に対して、其の母を呼びて伯母・叔母と為すは、此れ避くべからざる者なり。兄弟の子已に孤にして、他人と言うに、孤なる者の前に対して、呼びて兄の子・弟の子と為すは、頗る忍びずと為す。北土の人は多く呼びて姪と為す。案ずるに、爾雅・喪服経・左伝、姪は名の男女に通ずと雖も、並びに是れ姑に対するの称なり。晋世已来、始めて叔姪と呼ぶ。今呼びて姪と為すは、理において勝れりと為す。
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『顔氏家訓』風操凡そ親属の名称は、皆な須らく粉墨すべし。濫にすべからざるなり。風教無き者は、其の父已に孤なるに、外祖父母を呼ぶこと祖父母と同じくし、人をして其の聞くを喜ばざらしむ。面に質すと雖も、皆な当に外を加えて以て之を別つべし。父母の世叔父は、皆な当に其の次第を加えて以て之を別つべし。父母の世叔母は、皆な当に其の姓を加えて以て之を別つべし。父母の群従の世叔父母及び従祖父母は、皆な当に其の爵位若しくは姓を加えて以て之を別つべし。河北の士人は、皆な外祖父母を呼びて家公・家母と為す。江南の田里の間にも亦た之を言う。家を以て外に代うるは、吾が識る所に非ず。
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