顔氏家訓 / 勉學
夫老、莊之書、蓋全真養性、不肯以物累己也。故藏名柱史、終蹈流沙、匿迹漆園、卒辭楚相、此任縱之徒耳。
新字:夫老、荘之書、蓋全真養性、不肯以物累己也。故蔵名柱史、終蹈流沙、匿迹漆園、卒辞楚相、此任縦之徒耳。
書き下し
夫れ老・荘の書は、蓋し真を全うし性を養い、物を以て己を累わすを肯えてせざるなり。故に名を柱史に蔵し、終に流沙を蹈み、迹を漆園に匿し、卒に楚相を辞す。此れ任縦の徒なるのみ。
現代語訳
老子や荘子の書は、本性を全うし生まれつきの性を養い、外物によって自分を煩わせないことを説くものである。だから老子は柱下史という職に名を隠し、最後は流砂の地へ去り、荘子は漆園の役人として跡を隠し、ついに楚の宰相の位を辞退した。これらは自由に振る舞う者たちである。
解説
老荘の本来の姿を確認した短い一段です。要点は、二人とも実際に地位を捨てたということ。老子は柱下史という下級の職に身を隠し、西へ去った。荘子は漆園の役人にとどまり、宰相の誘いを断った。思想と生き方が一致しています。次の段で、その思想を掲げながら地位と名声を追った後世の人々が並べられます。まず本物の姿を示してから、そこからの隔たりを見せる構成です。何かの思想を掲げる人を見るとき、その思想の創始者が実際にどう生きたかと比べる。それが最も単純な検算になります。
この章句が説くこと
真を全うし性を養う名を柱史に蔵す迹を漆園に匿す思想と生き方
関連する章句
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史記 老子韓非列伝荘子は、蒙の人なり、名は周。周嘗て蒙の漆園の吏為り、梁の恵王・斉の宣王と時を同じくす。其の学は闚ざる所無し。然れども其の要の本は老子の言に帰す。故に其の著書十余万言は、大抵率ね寓言なり。漁父・盗跖・胠篋を作り、以て孔子の徒を詆訿し、以て老子の術を明らかにす。畏累虚・亢桑子の属は、皆空語にして事実無し。然れども善く書を属り辞を離ね、事を指し情を類し、用て儒・墨を剽剝す。当世の宿学と雖も自ら解免する能はず。其の言は洸洋として自ら恣にして以て己に適ふ。故に王公大人よりして之を器とする能はず。
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史記 老子韓非列伝老子、道徳を修む。其の学は自ら隠れて名無きを以て務めと為す。周に居ること之を久しくして、周の衰ふるを見、乃ち遂に去る。関に至り、関令の尹喜曰く、「子将に隠れんとす。彊めて我が為に書を著せ」と。是に於いて老子乃ち書上下篇を著し、道徳の意を言ふこと五千余言にして去る。其の終ふる所を知る莫し。
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史記 老子韓非列伝老子は、楚の苦県厲郷曲仁里の人なり。姓は李氏、名は耳、字は耼、周の守藏室の史なり。孔子、周に適き、将に礼を老子に問はんとす。老子曰く、「子の言ふ所の者は、其の人と骨と皆已に朽つ。独り其の言在るのみ。且つ君子は其の時を得ば則ち駕し、其の時を得ざれば則ち蓬累して行く。吾之を聞く、良賈は深く藏して虚しきが若く、君子は盛徳あるも容貌は愚なるが若し、と。子の驕気と多欲、態色と淫志を去れ。是れ皆子の身に益無し。吾が以て子に告ぐる所は、是くの若きのみ」と。孔子去り、弟子に謂ひて曰く、「鳥は、吾其の能く飛ぶを知る。魚は、吾其の能く游ぐを知る。獣は、吾其の能く走るを知る。走る者には以て罔を為す可く、游ぐ者には以て綸を為す可く、飛ぶ者には以て矰を為す可し。龍に至りては、吾其の風雲に乗りて天に上るを知る能はず。吾今日老子を見るに、其れ猶ほ龍のごときか」と。
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『顔氏家訓』勉學且つ甲を負いて兵と為り、筆を咋みて吏と為り、身死し名滅ぶる者は牛毛の如く、角立し傑出する者は芝草の如し。素を握り黄を披き、道を吟じ徳を詠じ、苦辛して益無き者は日蝕の如く、名利に逸楽する者は秋荼の如し。豈に年を同じくして語るを得んや。且つ又た之を聞く、生まれながらにして之を知る者は上、学びて之を知る者は次なりと。学ぶ所以の者は、其の多く知り明達ならんことを欲するのみ。必ず天才有りて、群を抜き類を出で、将と為らば則ち闇に孫武・呉起と術を同じくし、政を執らば則ち懸かに管仲・子産の教えを得ば、未だ書を読まずと雖も、吾も亦た之を学と謂わん。今子は即ち然る能わず。古の蹤迹を師とせずんば、猶お被を蒙りて臥するのみ。
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史記 老子韓非列伝太史公曰く、「老子の貴ぶ所の道は、虚無にして、応に因りて無為に変化す。故に著書の辞、微妙にして識り難しと称せらる。荘子は道徳を散じて放論す、要は亦た之を自然に帰す。申子は卑卑として、之を名実に施す。韓子は縄墨を引き、事情を切にし、是非を明らかにす、其の極は惨礉にして恩少なし。皆道徳の意に原づく、而して老子は深遠なり」と。
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史記 老子韓非列伝或いは曰く、「老萊子も亦た楚人なり。書十五篇を著し、道家の用を言ふ、孔子と時を同じくす」と。蓋し老子は百有六十余歳、或いは言ふ、二百余歳と、其の道を修めて壽を養ふを以てなり。孔子死して自りの後百二十九年にして、史、周の太史儋の秦の献公に見えて曰くを記す、「始め、秦と周とは合ひ、合ひて五百歳にして離れ、離れて七十歳にして覇王たる者出づ」と。或いは曰く、「儋は即ち老子なり」と。或いは曰く、「非なり」と。世に其の然るか否かを知る莫し。老子は隠君子なり。老子の子の名は宗、宗、魏の将為りて段干に封ぜらる。宗の子は注、注の子は宮、宮の玄孫は假、假、漢の孝文帝に仕ふ。而して假の子解は膠西王卬の太傅と為り、因りて斉に家す。