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顔氏家訓 / 書證

通俗文、世間題云「河南服虔字子愼造」。虔旣是漢人、其敍乃引蘇林、張揖、蘇、張皆是魏人。且鄭玄以前、全不解反語、通俗反音、甚會近俗。阮孝緒又云「李虔所造」。河北此書、家藏一本、遂無作李虔者。晉中經簿及七志、並無其目、竟不得知誰制。然其文義允愜、實是高才。殷仲堪常用字訓、亦引服虔俗説、今復無此書、未知即是通俗文、爲當有異?或更有服虔乎?不能明也。

新字:通俗文、世間題云「河南服虔字子慎造」。虔旣是漢人、其叙乃引蘇林、張揖、蘇、張皆是魏人。且鄭玄以前、全不解反語、通俗反音、甚会近俗。阮孝緒又云「李虔所造」。河北此書、家蔵一本、遂無作李虔者。晉中経簿及七志、並無其目、竟不得知誰制。然其文義允愜、実是高才。殷仲堪常用字訓、亦引服虔俗説、今復無此書、未知即是通俗文、為当有異?或更有服虔乎?不能明也。

書き下し

通俗文は、世間に題して「河南の服虔字は子慎造る」と云う。虔は既に是れ漢人なるに、其の叙は乃ち蘇林・張揖を引く。蘇・張は皆な是れ魏人なり。且つ鄭玄以前は、全く反語を解せず。通俗の反音は、甚だ近俗に会す。阮孝緒は又た「李虔の造る所」と云う。河北の此の書は、家ごとに一本を蔵するも、遂に李虔と作る者無し。晋の中経簿及び七志には、並びに其の目無し。竟に誰の制するかを知るを得ず。然れども其の文義は允愜にして、実に是れ高才なり。殷仲堪は常に字訓を用い、亦た服虔の俗説を引く。今復た此の書無し。未だ知らず、即ち是れ通俗文なるか、当に異なる有りと為すか。或いは更に服虔有るか。明らかにする能わざるなり。

現代語訳

『通俗文』は、世間では「河南の服虔、字は子慎が作った」と題されている。しかし服虔は漢の人なのに、その序文は蘇林と張揖を引いている。蘇と張はどちらも魏の人である。そのうえ鄭玄以前には反切をまったく理解していなかった。『通俗文』の反切による音注は、たいそう最近の習慣に合っている。阮孝緒はまた「李虔が作った」という。河北ではこの書を家ごとに一本ずつ蔵しているが、李虔と書いてあるものは一つもない。晋の『中経簿』および『七志』にも、どちらもその書目がない。結局、誰が作ったのか分からない。しかしその文と意味は行き届いていて、実に才の高い人の作である。殷仲堪はいつも字訓を用い、また服虔の俗説を引いている。今その書は残っていない。それが『通俗文』なのか、別の書なのか、あるいは別の服虔がいたのか。明らかにできない。

解説

著者が誰か分からない書物について、分からないという結論に到達するまでの手続きです。序文が引く人物の時代と著者の時代が合わない、音注の様式が時代と合わない、別説の裏も取れない、目録にも載っていない。四つの検証をすべて行ったうえで「竟に誰の制するかを知るを得ず」と結論します。そして最後に「其の文義は允愜にして、実に是れ高才なり」——著者は分からないが、内容は優れている。出所が不明であることと、価値がないことは別だ、と分けています。出典が確認できない資料を、価値の判定と分けて扱えるかどうかです。

この章句が説くこと

通俗文は服虔の造る所と云う序は蘇林張揖を引く竟に誰の制するかを知るを得ず出所と価値

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