顔氏家訓 / 書證
其一所曰:「元年、制詔丞相斯、去疾、法度量、盡始皇帝爲之、皆有刻辭焉。今襲號而刻辭不稱始皇帝、其於久遠也、如後嗣爲之者、不稱成功盛德、刻此詔□左、使毋疑。」凡五十八字、一字磨滅、見有五十七字、了了分明。其書兼爲古隸。余被敕寫讀之、與內史令李德林對、見此稱權、今在官庫、其「丞相狀」字、乃爲狀貌之「狀」、丬旁作犬、則知俗作「隗林」、非也、當爲「隗狀」耳。
新字:其一所曰:「元年、制詔丞相斯、去疾、法度量、尽始皇帝為之、皆有刻辞焉。今襲号而刻辞不称始皇帝、其於久遠也、如後嗣為之者、不称成功盛徳、刻此詔□左、使毋疑。」凡五十八字、一字磨滅、見有五十七字、了了分明。其書兼為古隸。余被勅写読之、与内史令李徳林対、見此称権、今在官庫、其「丞相状」字、乃為状貌之「状」、丬旁作犬、則知俗作「隗林」、非也、当為「隗状」耳。
書き下し
其の一所に曰く、「元年、制して丞相斯・去疾に詔す。法度量は、尽く始皇帝の之を為す所にして、皆な刻辞有り。今号を襲ぎて刻辞に始皇帝と称せざれば、其れ久遠においてや、後嗣の之を為す者の如く、成功盛徳を称せざらん。此の詔を左に刻し、疑い毋からしむ」と。凡そ五十八字。一字磨滅し、見に五十七字有り。了了として分明なり。其の書は兼ねて古隷と為す。余は敕を被りて之を写読す。内史令の李徳林と対す。此の稱権を見るに、今官庫に在り。其の「丞相状」の字は、乃ち状貌の「状」と為し、爿の傍らに犬を作る。則ち知る、俗に「隗林」に作るは、非なり。当に「隗状」と為すべきのみ。
現代語訳
もう一か所にいう。「元年、詔して丞相の斯と去疾に命じた。度量衡は、すべて始皇帝が定めたもので、みな刻文がある。今、号を受け継いでいながら刻文に始皇帝と称さなければ、遠い後世においては、後継の者が定めたもののようになり、その功績と大いなる徳を称えないことになる。この詔を左に刻んで、疑いのないようにせよ」。全部で五十八字である。一字が磨滅していて、現在は五十七字が読める。はっきりと明瞭である。その書体は古い隷書である。私は勅命を受けてこれを書き写し読んだ。内史令の李徳林と向き合って行った。この分銅を見ると、今は官の倉庫にある。その「丞相状」の字は、状貌の「状」であって、爿偏に犬と書いてある。したがって、世間で「隗林」と書くのは誤りであり、「隗状」とすべきだと分かる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『顔氏家訓』書證史記の始皇本紀に、「二十八年、丞相隗林・丞相王綰等、海上に議す」と。諸本は皆な山林の「林」に作る。開皇二年五月、長安の民、掘りて秦時の鉄稱権を得たり。旁らに銅塗の鐫銘二所有り。其の一所に曰く、「廿六年、皇帝尽く天下の諸侯を并兼す。黔首大いに安んず。号を立てて皇帝と為す。乃ち丞相状・綰に詔す。法度量の則ち壱ならず嫌疑ある者は、皆な明らかに之を壱にせよ」と。凡そ四十字なり。
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『顔氏家訓』書證吾昔初めて説文を看るに、世字を蚩薄す。正に従わば則ち人の識らざるを懼れ、俗に随わば則ち意に其の非なるを嫌う。略ぼ是れ筆を下すを得ざるなり。見る所漸く広くして、更に通変を知る。前の執を救うこと、将に半ばならんと欲す。若し文章著述ならば、猶お微しく相い影響する者を択びて之を行う。官曹の文書、世間の尺牘は、幸わくは俗に違わざれ。
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『顔氏家訓』書證自ずから訛謬有りて、過ぎて鄙俗を成す。「乱」の傍らを「舌」と為し、「揖」の下に「耳」無く、「黿」「鼉」は「亀」に従い、「奮」「奪」は「雚」に従い、「席」の中に「帯」を加え、「悪」の上に「西」を安んじ、「鼓」の外に「皮」を設け、「鑿」の頭に「毀」を生じ、「離」は則ち「禹」を配し、「壑」は乃ち「豁」を施し、「巫」は「経」の傍らに混じり、「皋」は「沢」の片に分かれ、「猟」は化して「獦」と為り、「寵」は変じて「竉」と成り、「業」の左に「片」を益し、「霊」の底に「器」を著く。「率」の字は自ずから律の音有るに、強いて改めて別と為す。「単」の字は自ずから善の音有るに、輒ち析ちて異と成す。此くの如きの類は、治めざるべからず。
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『顔氏家訓』書證且つ余も亦た専ら説文を以て是と為さざるなり。其の経伝を援引して、今と乖く者有るは、未だ之に従うを敢えてせず。又た相如の封禅の書に曰く、「一茎六穂を庖に導き、双觡共抵の獣を犠とす」と。此の導は択と訓ず。光武の詔に云う、「徒だ豫め養い導び択ぶの労有るのみに非ず」と、是なり。而るに説文に云う、「導は是れ禾の名なり」と。封禅の書を引きて証と為す。妨げ無く自ずから当に禾に導と名づくる有るべきも、相如の用うる所に非ざるなり。「禾の一茎六穂は庖に」とは、豈に文を成さんや。縦い相如の天才鄙拙にして、強いて此の語を為すとも、則ち下句は当に「麟の双觡共抵の獣」と云うべく、犠と云うを得ず。吾嘗て許が純儒にして、文章の体に達せざるを笑う。此くの如きの流は、憑信するに足らず。大抵其の書を為るに、隠括して条例有り、剖析して根源を窮むるに服す。鄭玄の書に注するに、往往に引きて以て証と為す。若し其の説を信ぜずんば、則ち冥冥として一点一画に、何の意有るかを知らざらん。
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『顔氏家訓』書證世間の小学者は、古今に通ぜず、必ず小篆に依りて、書記を是正す。凡そ爾雅・三蒼・説文は、豈に能く悉く蒼頡の本指を得んや。亦た是れ代に随いて損益し、互いに同異有り。西晋已往の字書、何ぞ全くは非とすべけんや。但だ体例をして成就せしめ、専輒を為さざるのみ。是非を考校するは、特に消息を須つ。「仲尼居」の如きに至りては、三字の中、両字は体に非ず。三蒼は「尼」の傍らに「丘」を益し、説文は「尸」の下に「几」を施す。此くの如きの類、何に由りてか従うべけん。古に二字無く、又た仮借多し。中を以て仲と為し、説を以て悦と為し、召を以て邵と為し、閑を以て閒と為す。此くの如きの徒も、亦た改むるを労せず。
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『顔氏家訓』書證何を以て之を験せん。孔子の弟子の虙子賤は単父の宰と為る。即ち虙羲の後なり。俗字にも亦た宓と為し、或いは復た山を加う。今兗州永昌郡の城は、旧の単父の地なり。東門に子賤の碑有り。漢世の立つる所なり。乃ち曰く、「済南の伏生は、即ち子賤の後なり」と。是に知る、虙の伏におけるは、古来の通字にして、誤りて宓と為すこと、較か知るべきなり。