顔氏家訓 / 書證
史記始皇本紀:「二十八年、丞相隗林、丞相王綰等、議於海上。」諸本皆作山林之「林。」。開皇二年五月、長安民掘得秦時鐵稱權、旁有銅塗鐫銘二所。其一所曰:「廿六年、皇帝盡並兼天下諸侯、黔首大安、立號爲皇帝、乃詔丞相狀、綰、法度量則不壹嫌疑者、皆明壹之。」凡四十字。
新字:史記始皇本紀:「二十八年、丞相隗林、丞相王綰等、議於海上。」諸本皆作山林之「林。」。開皇二年五月、長安民掘得秦時鉄称権、旁有銅塗鐫銘二所。其一所曰:「廿六年、皇帝尽並兼天下諸侯、黔首大安、立号為皇帝、乃詔丞相状、綰、法度量則不壱嫌疑者、皆明壱之。」凡四十字。
書き下し
史記の始皇本紀に、「二十八年、丞相隗林・丞相王綰等、海上に議す」と。諸本は皆な山林の「林」に作る。開皇二年五月、長安の民、掘りて秦時の鉄稱権を得たり。旁らに銅塗の鐫銘二所有り。其の一所に曰く、「廿六年、皇帝尽く天下の諸侯を并兼す。黔首大いに安んず。号を立てて皇帝と為す。乃ち丞相状・綰に詔す。法度量の則ち壱ならず嫌疑ある者は、皆な明らかに之を壱にせよ」と。凡そ四十字なり。
現代語訳
『史記』の始皇本紀に「二十八年、丞相の隗林と丞相の王綰らが、海上で議した」とある。どの本もみな山林の「林」と書いている。開皇二年五月、長安の民が土を掘って秦の時代の鉄製の分銅を掘り当てた。その傍らに銅で塗った刻銘が二か所あった。その一か所にいう。「二十六年、皇帝がことごとく天下の諸侯を併合した。民は大いに安んじた。号を立てて皇帝とした。そこで丞相の状と綰に詔した。度量衡の基準が統一されず疑わしいものは、みなはっきりと統一せよ」。全部で四十字である。
解説
文献の異同を、出土品で決着させた記録です。『史記』の写本はどれも「隗林」となっていた。ところが長安で秦代の分銅が掘り出され、その銘文に「丞相状」とあった。写本の系統をいくら比べても届かない証拠が、地面の下から出てきた。しかも顔之推はこの分銅を実際に見て、字を確認しています。伝えられてきた記録と、当時作られた現物。両方が使えるなら、現物が優先します。過去の経緯をたどるとき、後から書かれた説明ではなく、そのとき作られた文書や現物に当たれるかどうか。決着の速さが変わります。
この章句が説くこと
秦時の鉄称権丞相状綰に詔す法度量を明らかに壱にす出土品による決着
関連する章句
-
『顔氏家訓』書證其の一所に曰く、「元年、制して丞相斯・去疾に詔す。法度量は、尽く始皇帝の之を為す所にして、皆な刻辞有り。今号を襲ぎて刻辞に始皇帝と称せざれば、其れ久遠においてや、後嗣の之を為す者の如く、成功盛徳を称せざらん。此の詔を左に刻し、疑い毋からしむ」と。凡そ五十八字。一字磨滅し、見に五十七字有り。了了として分明なり。其の書は兼ねて古隷と為す。余は敕を被りて之を写読す。内史令の李徳林と対す。此の稱権を見るに、今官庫に在り。其の「丞相状」の字は、乃ち状貌の「状」と為し、爿の傍らに犬を作る。則ち知る、俗に「隗林」に作るは、非なり。当に「隗状」と為すべきのみ。
-
史記 秦始皇本紀趙王其の相李牧をして来たりて盟を約せしむ。故に其の質子を帰す。已にして盟に倍き、我が太原に反く。故に兵を興して之を誅し、其の王を得たり。趙の公子嘉乃ち自立して代王と為る。故に兵を挙げて撃ちて之を滅ぼす。魏王始め服を約して秦に入る。已にして韓・趙と謀りて秦を襲ふ。秦の兵吏誅し、遂に之を破る。荊王青陽以西を献じ、已にして約に畔き、我が南郡を撃つ。故に兵を発して誅し、其の王を得て、遂に其の荊の地を定む。燕王昏乱し、其の太子丹乃ち陰かに荊軻をして賊を為さしむ。兵吏誅し、其の国を滅ぼす。斉王后勝の計を用ゐ、秦の使を絶ち、乱を為さんと欲す。兵吏誅し、其の王を虜にし、斉の地を平らぐ。寡人眇眇の身を以て、兵を興して暴乱を誅し、宗廟の霊に頼り、六王咸其の辜に伏し、天下大いに定まる。今名号更めずんば、以て成功を称し、後世に伝ふる無し。其れ帝号を議せよ」と。丞相綰・御史大夫劫・廷尉斯等皆曰く、「昔者五帝は地方千里、其の外の侯服・夷服の諸侯或いは朝し或いは否ず、天子制する能はず。今陛下義兵を興し、残賊を誅し、天下を平定し、海内を郡県と為し、法令一統に由る。上古より以来未だ嘗て有らず、五帝の及ばざる所なり。臣等謹んで博士と議して曰く、『古に天皇有り、地皇有り、泰皇有り、泰皇最も貴し』と。臣等昧死して尊号を上り、王を『泰皇』と為さん。命を『制』と為し、令を『詔』と為し、天子自ら称して『朕』と曰はん」と。王曰く、「『泰』を去りて、『皇』を著け、上古の『帝』の位号を采り、号して『皇帝』と曰はん。他は議の如くせよ」と。制して曰く、「可なり」と。荘襄王を追尊して太上皇と為す。制して曰く、「朕聞く、太古は号有りて謚毋く、中古は号有り、死して行ひを以て謚を為すと。此の如くんば、則ち子父を議し、臣君を議するなり。甚だ謂れ無し。朕取らず。今より已来、謚法を除く。朕を始皇帝と為す。後世は計数を以てし、二世三世より万世に至るまで、之を無窮に伝へん」と。
-
史記 秦始皇本紀曰く、維れ二十八年、皇帝作始す。法度を端平にし、万物の紀なり。以て人事を明らかにし、父子を合同す。聖智仁義、道理を顕白す。東のかた東土を撫し、以て卒士を省る。事已に大いに畢はり、乃ち海に臨む。皇帝の功、本事を勧労す。農を上び末を除き、黔首是れ富む。普天の下、心を摶め志を揖む。器械量を一にし、書文字を同じくす。日月の照らす所、舟輿の載する所、皆其の命を終へ、意を得ざる莫し。時に応じて事を動かす、是れ維れ皇帝。異俗を匡飭し、水を陵え地を経る。黔首を憂恤し、朝夕懈らず。疑ひを除き法を定め、咸辟くる所を知る。方伯職を分かち、諸治経易なり。挙錯必ず当たり、画くが如くならざる莫し。皇帝の明、四方を臨察す。尊卑貴賤、次行を踰えず。姦邪容れず、皆貞良を務む。細大力を尽くし、敢へて怠荒する莫し。遠邇辟隠、専ら粛荘を務む。端直敦忠、事業常有り。皇帝の徳、四極を存定す。乱を誅し害を除き、利を興し福を致す。事を節するに時を以てし、諸産繁殖す。黔首安寧にして、兵革を用ゐず。六親相保ち、終に寇賊無し。驩欣して教へを奉じ、尽く法式を知る。六合の内は、皇帝の土。西は流沙を渉り、南は北戸を尽くす。東は東海を有ち、北は大夏を過ぐ。人跡の至る所、臣たらざる者無し。功は五帝を蓋ひ、沢は牛馬に及ぶ。徳を受けざる莫く、各其の宇に安んず。維れ秦王天下を兼有し、名を立てて皇帝と為し、乃ち東土を撫し、瑯邪に至る。列侯武城侯王離・列侯通武侯王賁・倫侯建成侯趙亥・倫侯昌武侯成・倫侯武信侯馮毋択・丞相隗林・丞相王綰・卿李斯・卿王戊・五大夫趙嬰・五大夫楊樛従ひ、与に海上に議す。
-
史記 李斯列伝官廷尉に至る。二十余年、竟に天下を并せ、主を尊びて皇帝と為し、斯を以て丞相と為す。郡県の城を夷げ、其の兵刃を銷かし、復た用ひざるを示す。秦をして尺土の封無からしめ、子弟を立てて王と為さず、功臣を諸侯と為す者無く、後に戦攻の患ひ無からしむ。始皇の三十四年、咸陽宮に置酒す。博士僕射周青臣等、始皇の威徳を頌す。斉人淳于越進み諫めて曰く、「臣之を聞く、殷周の王たること千余歳、子弟功臣を封じて自ら支輔と為す。今陛下海内を有つも、而して子弟は匹夫たり。卒に田常・六卿の患ひ有らば、臣に輔弼無し。何を以て相救はんや。事古を師とせずして能く長久なる者は、聞く所に非ざるなり。今青臣等又面諛して以て陛下の過ちを重ぬ。忠臣に非ざるなり」と。始皇其の議を丞相に下す。丞相其の説を謬とし、其の辞を絀け、乃ち書を上りて曰く、「古者天下散乱し、能く相一にする莫し。是を以て諸侯並び作り、語は皆古を道ひて以て今を害し、虚言を飾りて以て実を乱し、人其の私学する所を善しとして、以て上の建立する所を非とす。今陛下天下を并有し、白黒を別ちて一尊を定む。而るに私学乃ち相与に法教の制を非とし、令の下るを聞けば、即ち各々其の私学を以て之を議し、入りては則ち心に非とし、出でては則ち巷に議し、主を非として以て名と為し、趣を異にして以て高しと為し、群下を率ゐて以て謗りを造る。此の如くにして禁ぜずんば、則ち主の勢は上に降り、党与は下に成らん。之を禁ずるは便なり。臣請ふ、諸々の文学・詩書・百家の語を有する者は、蠲除して之を去らしめん。令到りて満三十日にして去らずんば、黥して城旦と為さん。去らざる所の者は、医薬・卜筮・種樹の書なり。若し学ばんと欲する者有らば、吏を以て師と為さん」と。始皇其の議を可とし、詩書百家の語を収め去りて以て百姓を愚にし、天下をして古を以て今を非とする無からしむ。法度を明らかにし、律令を定むること、皆始皇を以て起こる。文書を同じくす。
-
史記 秦始皇本紀始皇終始五徳の伝を推し、以為へらく周は火徳を得たり、秦周の徳に代はる、勝たざる所に従ふと。方今水徳の始めなり。年始を改め、朝賀は皆十月朔よりす。衣服・旄旌・節旗は皆黒を上ぶ。数は六を以て紀と為し、符・法冠は皆六寸、而して輿は六尺、六尺を歩と為し、六馬に乗る。河を更名して徳水と曰ひ、以て水徳の始めと為す。剛毅戾深にして、事は皆法に決し、刻削して仁恩和義毋く、然る後に五徳の数に合ふ。是に於て法を急にし、久しき者も赦さず。丞相綰等言ふ、「諸侯初めて破れ、燕・斉・荊の地遠く、為に王を置かずんば、以て之を填むる毋し。請ふ諸子を立てんことを、唯だ上幸ひに許せ」と。始皇其の議を群臣に下す。群臣皆以て便と為す。廷尉李斯議して曰く、「周の文武の封ずる所の子弟同姓甚だ衆し。然る後に属疏遠となり、相攻撃すること仇讎の如く、諸侯更相誅伐し、周の天子禁止する能はず。今海内陛下の神霊に頼りて一統し、皆郡県と為る。諸子功臣は公の賦税を以て重く之を賞賜せば、甚だ足りて制し易し。天下に異意無きは、則ち安寧の術なり。諸侯を置くは便ならず」と。始皇曰く、「天下共に戦闘の休まざるに苦しむは、侯王有るを以てなり。宗廟に頼り、天下初めて定まる。又復た国を立つるは、是れ兵を樹つるなり。而して其の寧息を求むるは、豈に難からずや。廷尉の議是なり」と。天下を分かちて以て三十六郡と為し、郡に守・尉・監を置く。民を更名して「黔首」と曰ふ。大いに酺す。天下の兵を収め、之を咸陽に聚め、銷して以て鐘鐻・金人十二と為す。重さ各千石、廷宮の中に置く。法度・衡石・丈尺を一にす。車は軌を同じくす。書は文字を同じくす。地は東は海に至りて朝鮮に暨び、西は臨洮・羌中に至り、南は北向戸に至り、北は河に拠りて塞と為し、陰山に并ひて遼東に至る。天下の豪富を咸陽に徙すこと十二万戸。諸廟及び章台・上林は皆渭南に在り。
-
史記 秦本紀荘襄王の元年、大いに罪人を赦し、先王の功臣を修め、徳を施し骨肉を厚くして恵を民に布く。東周の君諸侯と秦を謀る。秦相国呂不韋をして之を誅せしめ、尽く其の国を入る。秦其の祀を絶たず、陽人の地を以て周の君に賜ひ、其の祭祀を奉ぜしむ。蒙驁をして韓を伐たしむ。韓成皋・鞏を献ず。秦の界大梁に至り、初めて三川郡を置く。二年、蒙驁をして趙を攻めしめ、太原を定む。三年、蒙驁魏の高都・汲を攻め、之を抜く。趙の楡次・新城・狼孟を攻め、三十七城を取る。四月日食す。王齕上党を攻む。初めて太原郡を置く。魏の将無忌五国の兵を率ゐて秦を撃ち、秦河外に却く。蒙驁敗れ、解きて去る。五月丙午、荘襄王卒し、子政立つ。是を秦の始皇帝と為す。秦王政立ちて二十六年、初めて天下を并せて三十六郡と為し、号して始皇帝と為す。始皇帝立ちて十一年にして崩じ、子胡亥立つ。是を二世皇帝と為す。三年、諸侯并び起こりて秦に叛き、趙高二世を殺し、子嬰を立つ。子嬰立ちて月余にして、諸侯之を誅し、遂に秦を滅ぼす。其の語は始皇本紀の中に在り。太史公曰く、秦の先は嬴姓為り。其の後分封せられ、国を以て姓と為す。徐氏・郯氏・莒氏・終黎氏・運奄氏・菟裘氏・将梁氏・黄氏・江氏・修魚氏・白冥氏・蜚廉氏・秦氏有り。然れども秦は其の先の造父の趙城に封ぜらるるを以て、趙氏と為る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る