師導古典を学びたいすべての人に

顔氏家訓 / 書證

且余亦不專以説文爲是也、其有援引經傳、與今乖者、未之敢從。又相如封禪書曰:『導一莖六穗於庖、犧雙觡共抵之獸。』此導訓擇、光武詔云:『非徒有豫養導擇之勞』是也。而説文云:『導是禾名。』引封禪書爲證、無妨自當有禾名導、非相如所用也。『禾一莖六穗於庖』、豈成文乎?縱使相如天才鄙拙、強爲此語、則下句當云『麟雙觡共抵之獸』、不得云犧也。吾嘗笑許純儒、不達文章之體、如此之流、不足憑信。大抵服其爲書、隱括有條例、剖析窮根源、鄭玄注書、往往引以爲證、若不信其説、則冥冥不知一點一畫、有何意焉。」

新字:且余亦不専以説文為是也、其有援引経伝、与今乖者、未之敢従。又相如封禅書曰:『導一茎六穗於庖、犠双觡共抵之獣。』此導訓択、光武詔云:『非徒有予養導択之労』是也。而説文云:『導是禾名。』引封禅書為證、無妨自当有禾名導、非相如所用也。『禾一茎六穗於庖』、豈成文乎?縦使相如天才鄙拙、強為此語、則下句当云『麟双觡共抵之獣』、不得云犠也。吾嘗笑許純儒、不達文章之体、如此之流、不足憑信。大抵服其為書、隠括有条例、剖析窮根源、鄭玄注書、往往引以為證、若不信其説、則冥冥不知一点一画、有何意焉。」

書き下し

且つ余も亦た専ら説文を以て是と為さざるなり。其の経伝を援引して、今と乖く者有るは、未だ之に従うを敢えてせず。又た相如の封禅の書に曰く、「一茎六穂を庖に導き、双觡共抵の獣を犠とす」と。此の導は択と訓ず。光武の詔に云う、「徒だ豫め養い導び択ぶの労有るのみに非ず」と、是なり。而るに説文に云う、「導は是れ禾の名なり」と。封禅の書を引きて証と為す。妨げ無く自ずから当に禾に導と名づくる有るべきも、相如の用うる所に非ざるなり。「禾の一茎六穂は庖に」とは、豈に文を成さんや。縦い相如の天才鄙拙にして、強いて此の語を為すとも、則ち下句は当に「麟の双觡共抵の獣」と云うべく、犠と云うを得ず。吾嘗て許が純儒にして、文章の体に達せざるを笑う。此くの如きの流は、憑信するに足らず。大抵其の書を為るに、隠括して条例有り、剖析して根源を窮むるに服す。鄭玄の書に注するに、往往に引きて以て証と為す。若し其の説を信ぜずんば、則ち冥冥として一点一画に、何の意有るかを知らざらん。

現代語訳

そのうえ私も、もっぱら『説文』を正しいとするわけではない。経典を引いていて今と食い違うところは、まだそれに従う気になれない。また司馬相如の「封禅書」にいう。「一本の茎に六つの穂のものを厨に択び出し、二本の角が根で合わさった獣を犠牲とした」。この「導」は「択ぶ」と解する。光武帝の詔に「ただあらかじめ養い択び出す労があるだけではない」とあるのがそれである。ところが『説文』は「導は稲の名である」といい、「封禅書」を証拠に引いている。稲に導という名があること自体は構わないが、相如が使ったのはその意味ではない。「一本の茎に六つの穂の稲は厨に」では、文として成り立つだろうか。たとえ相如の才が拙くて無理にこう言ったとしても、下の句は「麟は二本の角が根で合わさった獣」と言うべきで、「犠」とは言えない。私はかつて許慎が純粋な学者で、文章の体裁に通じていないことを笑った。こうした類は信頼できない。しかし大筋では、その書が整った条例を持ち、分析して根源を窮めていることには感服する。鄭玄が書物に注するとき、しばしばこれを引いて証拠としている。もしその説を信じなければ、暗闇の中で一点一画に何の意味があるかも分からなくなる。

解説

自分が依拠している書物の欠点を、具体的に指摘したうえで、それでも使う理由を述べた一段です。『説文』は字の意味を取り違えている箇所がある。文章の体裁に通じていない。それを笑ったこともある。しかし体系が整い、根源まで分析している点は他にない。だから使う。全面的に信じるのでも、欠点を見つけて捨てるのでもなく、どこは使えてどこは使えないかを分けています。依拠する資料や道具に対して、この距離の取り方ができるかどうか。完璧でないから捨てる、あるいは権威だから全部信じる、のどちらかに寄ると、判断の材料が減ります。

この章句が説くこと

余も亦た専ら説文を以て是と為さず許が純儒にして文章の体に達せざるを笑う隠括して条例有り距離の取り方

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる