顔氏家訓 / 慕賢
張延雋之爲晉州行臺左丞、匡維主將、鎮撫疆埸、儲積器用、愛活黎民、隱若敵國矣。群小不得行志、同力遷之、旣代之後、公私擾亂、周師一舉、此鎮先平。齊亡之迹、啓於是矣。
新字:張延雋之為晉州行台左丞、匡維主将、鎮撫疆埸、儲積器用、愛活黎民、隠若敵国矣。群小不得行志、同力遷之、旣代之後、公私擾乱、周師一舉、此鎮先平。斉亡之迹、啓於是矣。
書き下し
張延雋の晋州行台左丞と為るや、主将を匡維し、疆埸を鎮撫し、器用を儲積し、黎民を愛活す。隠として敵国の若きなり。群小志を行うを得ず、力を同じくして之を遷す。既に代わるの後、公私擾乱す。周師一挙して、此の鎮先ず平らぐ。斉の亡ぶるの迹、是に啓かれたり。
現代語訳
張延雋が晋州行台の左丞であったとき、主将を正し助け、国境を鎮め安んじ、武器と物資を蓄え、民を慈しみ生かした。その存在は一国に匹敵するほどどっしりしていた。取るに足らない者たちは思うようにできず、力を合わせて彼を転任させた。交代の後、公私ともに乱れた。北周の軍が一度動くと、この鎮が真っ先に陥落した。北斉が滅んだ道筋は、ここから開かれた。
解説
一人の異動が国の滅亡の起点になった話です。張延雋がしていたのは、主将を補佐し、国境を安定させ、物資を備蓄し、民を守ること。派手さのない実務ばかりです。「隠として敵国の若きなり」——その存在自体が一国に匹敵した。ところが小人たちにとっては、自分の思い通りにできない障害でした。だから力を合わせて転任させた。排除の動機は無能さではなく、むしろ有能さです。彼がいると好き勝手ができない。組織で、地味に効いている人ほど、その効果が見えないまま「扱いにくい人」として外されることがあります。誰かの異動を求める声が集まるとき、その人が何を止めていたのかを確かめる価値があります。
この章句が説くこと
張延雋隠として敵国のごとし群小力を同じくして之を遷す地味に効く人忍耐
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