顔氏家訓 / 慕賢
世人多蔽、貴耳賤目、重遙輕近。少長周旋、如有賢哲、每相狎侮、不加禮敬、他鄉異縣、微借風聲、延頸企踵、甚於飢渴。校其長短、核其精麤、或彼不能如此矣。所以魯人謂孔子爲東家丘、昔虞國宮之奇、少長於君、君狎之、不納其諫、以至亡國、不可不畱心也。
新字:世人多蔽、貴耳賤目、重遥軽近。少長周旋、如有賢哲、毎相狎侮、不加礼敬、他鄉異県、微借風声、延頸企踵、甚於飢渴。校其長短、核其精麤、或彼不能如此矣。所以魯人謂孔子為東家丘、昔虞国宮之奇、少長於君、君狎之、不納其諫、以至亡国、不可不畱心也。
書き下し
世人多く蔽われ、耳を貴び目を賤しみ、遥かなるを重んじ近きを軽んず。少より長ずるまで周旋するに、如し賢哲有らば、毎に相い狎侮して、礼敬を加えず。他郷異県に、微かに風声を借れば、頸を延べ踵を企て、飢渇よりも甚だし。其の長短を校べ、其の精麤を核すに、或いは彼は此くの如き能わざるなり。所以に魯人は孔子を謂いて東家丘と為す。昔虞国の宮之奇は、少より君に長ずる。君之に狎れて、其の諫めを納れず、以て亡国に至る。心に留めざるべからざるなり。
現代語訳
世の人は多く目が曇っていて、耳で聞いたことを貴び、目で見たものを賤しみ、遠くのものを重んじ、近くのものを軽んじる。幼い頃から共に過ごしてきた相手に賢者がいても、いつもなれなれしく侮って、礼を尽くさない。よその土地の人については、わずかに評判を聞いただけで、首を伸ばしつま先立ちして、飢え渇いた者以上に会いたがる。その優劣を比べ、中身の精粗を調べれば、遠くの人のほうが及ばないこともある。だから魯の人は孔子を「東隣の丘さん」と呼んだ。昔、虞の国の宮之奇は、幼い頃から君主と共に育った。君主は彼になれて、その諫めを聞き入れず、ついに国を滅ぼした。心に留めておかねばならない。
解説
「東家丘」——東隣の丘さん。魯の人々にとって孔子は、そう呼ばれる程度の存在でした。近くにいる人の価値は見えない。耳で聞いた遠くの評判は貴び、目の前にいる相手は侮る。虞の宮之奇は、幼なじみだったがゆえに諫言を聞かれず、国が滅びました。この偏りは今も変わりません。外部コンサルタントの言葉は通り、同じことを言い続けてきた社員の言葉は通らない。距離が権威を作るからです。対策は単純で、社内から出た提案を、外部から来たものとして一度読み直してみること。誰が言ったかを消して中身だけを見れば、判断は変わります。
この章句が説くこと
東家丘貴耳賤目宮之奇近い人の価値君子小人謙虚
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