学問のすゝめ / 三編・一身独立して一国独立すること・横浜に来る田舎の商人
昔鎖国の世に旧幕府のごとき窮屈なる政を行なう時代なれば、人民に気力なきもその政事に差しつかえざるのみならずかえって便利なるゆえ、ことさらにこれを無智に陥れ、無理に柔順ならしむるをもって役人の得意となせしことなれども、今、外国と交わるの日に至りてはこれがため大なる弊害あり。譬えば田舎の商人ら、恐れながら外国の交易に志して横浜などへ来る者あれば、まず外国人の骨格たくましきを見てこれに驚き、金の多きを見てこれに驚き、商館の洪大なるに驚き、蒸気船の速きに驚き、すでにすでに胆を落として、追い追いこの外国人に近づき取引きするに及んでは、その駆引きのするどきに驚き、あるいは無理なる理屈を言いかけらるることあればただに驚くのみならず、その威力に震い懼れて、無理と知りながら大なる損亡を受け大なる恥辱を蒙ることあり。
書き下し
昔鎖国の世に、旧幕府のごとき窮屈なる政を行なう時代なれば、人民に気力なきもその政事に差しつかえざるのみならず、かえって便利なるゆえ、ことさらにこれを無智に陥れ、無理に柔順ならしむるをもって役人の得意となせしことなれども、今、外国と交わるの日に至りては、これがため大なる弊害あり。譬えば田舎の商人ら、恐れながら外国の交易に志して横浜などへ来る者あれば、まず外国人の骨格たくましきを見てこれに驚き、金の多きを見てこれに驚き、商館の洪大なるに驚き、蒸気船の速きに驚き、すでにすでに胆を落として、追い追いこの外国人に近づき取引きするに及んでは、その駆引きのするどきに驚き、あるいは無理なる理屈を言いかけらるることあれば、ただに驚くのみならず、その威力に震い懼れて、無理と知りながら大なる損亡を受け、大なる恥辱を蒙ることあり。
現代語訳
昔の鎖国の世では、旧幕府のような窮屈な政治を行う時代でしたから、人民に気力がなくても政治に差し支えないばかりか、かえって好都合なので、わざとこれを無知に陥れ、無理に従順にさせることを役人の得意としてきました。しかし今、外国と交わる時代になると、そのために大きな弊害があります。たとえば田舎の商人が、恐る恐る外国との交易を志して横浜などへ来ると、まず外国人の体格のたくましさに驚き、金の多さに驚き、商館の大きさに驚き、蒸気船の速さに驚いて、すでに気持ちがくじけてしまう。そして次第にこの外国人に近づいて取引をするようになると、その駆け引きの鋭さに驚き、あるいは無理な理屈を言いかけられれば、驚くだけでなくその威力に震え恐れて、無理だと知りながら大きな損害を受け、大きな恥辱を被ることがあります。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『学問のすゝめ』三編・一身独立して一国独立すること・一人の恥辱にあらず一国の恥辱なりこは一人の損亡にあらず、一国の損亡なり。一人の恥辱にあらず、一国の恥辱なり。実に馬鹿らしきようなれども、先祖代々独立の気を吸わざる町人根性、武士には窘しめられ、裁判所には叱られ、一人扶持取る足軽に逢いてもお旦那さまと崇めし魂は腹の底まで腐れつき、一朝一夕に洗うべからず、かかる臆病神の手下どもが、かの大胆不敵なる外国人に逢いて、胆をぬかるるは無理ならぬことなり。これすなわち、内に居て独立を得ざる者は外にありても独立すること能わざるの証拠なり。
-
『学問のすゝめ』三編・一身独立して一国独立すること・習い性となる第二条、内に居て独立の地位を得ざる者は、外にありて外国人に接するときもまた独立の権義を伸ぶること能わず。独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛うものなり。常に人を恐れ人に諛う者はしだいにこれに慣れ、その面の皮、鉄のごとくなりて、恥ずべきを恥じず、論ずべきを論ぜず、人をさえ見ればただ腰を屈するのみ。いわゆる「習い、性となる」とは、このことにて、慣れたることは容易に改め難きものなり。譬えば今、日本にて平民に苗字・乗馬を許し、裁判所の風も改まりて、表向きはまず士族と同等のようなれども、その習慣にわかに変ぜず、平民の根性は依然として旧の平民に異ならず、言語も賤しく応接も賤しく、目上の人に逢えば一言半句の理屈を述ぶること能わず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その柔順なること家に飼いたる痩せ犬のごとし。実に無気無力の鉄面皮と言うべし。
-
『学問のすゝめ』三編・一身独立して一国独立すること・禍は思わぬところに起こるこののち万々一も外国人雑居などの場合に及び、その名目を借りて奸を働く者あらば、国の禍、実に言うべからざるべし。ゆえに人民に独立の気力なきは、その取扱いに便利などとて油断すべからず。禍は思わぬところに起こるものなり。国民に独立の気力いよいよ少なければ、国を売るの禍もまたしたがってますます大なるべし。すなわちこの条のはじめに言える、人に依頼して悪事をなすとは、このことなり。
-
『学問のすゝめ』五編・明治七年一月一日の詞・望洋の歎を免れず今や外国の交際にわかに開け、国内の事務一としてこれに関せざるものなし。事々物々みな外国に比較して処置せざるべからざるの勢いに至り、古来わが国人の力にてわずかに達し得たる文明の有様をもって、西洋諸国の有様に比すれば、ただに三舎を譲るのみならず、これに倣わんとしてあるいは望洋の歎を免れず、ますますわが独立の薄弱なるを覚ゆるなり。
-
『学問のすゝめ』五編・明治七年一月一日の詞・無用の長物に属するなり近来わが政府、しきりに学校を建て工業を勧め、海陸軍の制も大いに面目を改め、文明の形、ほぼ備わりたれども、人民いまだ外国へ対してわが独立を固くしともに先を争わんとする者なし。ただにこれと争わざるのみならず、たまたまかの事情を知るべき機会を得たる人にても、いまだこれを詳らかにせずしてまずこれを恐るるのみ。他に対してすでに恐怖の心をいだくときは、たとい、我にいささか得るところあるもこれを外に施すに由なし。畢竟、人民に独立の気力あらざれば、かの文明の形もついに無用の長物に属するなり。
-
『学問のすゝめ』五編・明治七年一月一日の詞・小児の家内に育せられて古来わが国治乱の沿革により政府はしばしば改まりたれども、今日に至るまで国の独立を失わざりし所以は、国民鎖国の風習に安んじ、治乱興廃、外国に関することなかりしをもってなり。外国に関係あらざれば、治も一国内の治なり、乱も一国内の乱なり、またこの治乱を経て失わざりし独立もただ一国内の独立にて、いまだ他に対して鋒を争いしものにあらず。これを譬えば、小児の家内に育せられていまだ外人に接せざる者のごとし。その薄弱なることもとより知るべきなり。