長短経 / 敗功
魏将王昶、陳㤗兵敗、大将軍以為己過〔魏人感将軍引過、皆悅、思報之。〕習鑿齒論曰、“司馬大将軍引二敗以為己過、過銷而業昌、可謂智矣。”夫忘其敗而下思其報、雖欲勿康、其可得乎?若乃諱敗推過、歸咎萬物、上下離心、賢愚釋體、是楚再敗而晉再克、謬之甚矣。夫人君茍統斯理、行雖失而名揚、兵雖挫而戰勝、百敗猶可、况再敗乎!此因敗以成功也。故知智者之舉事也、因禍為福、轉敗為功、自古然矣。
新字:魏将王昶、陳㤗兵敗、大将軍以為己過〔魏人感将軍引過、皆悦、思報之。〕習鑿歯論曰、“司馬大将軍引二敗以為己過、過銷而業昌、可謂智矣。”夫忘其敗而下思其報、雖欲勿康、其可得乎?若乃諱敗推過、帰咎万物、上下離心、賢愚釈体、是楚再敗而晋再克、謬之甚矣。夫人君苟統斯理、行雖失而名揚、兵雖挫而戦勝、百敗猶可、況再敗乎!此因敗以成功也。故知智者之舉事也、因禍為福、転敗為功、自古然矣。
書き下し
魏の将王昶・陳泰の兵敗る。大将軍以て己の過ちと為す〔魏人は将軍の過ちを引くに感じ、皆悦び、之に報いんことを思う〕。習鑿齒論じて曰く「司馬大将軍は二敗を引きて以て己の過ちと為し、過ち銷えて業昌ゆ。智と謂うべし」と。夫れ其の敗を忘れて下其の報いを思わば、康からざらんと欲すと雖も、其れ得べけんや。若し乃ち敗を諱み過ちを推し、咎を万物に帰すれば、上下心を離し、賢愚体を釈く。是れ楚は再び敗れて晋は再び克つ。謬れるの甚だしきなり。夫れ人君苟も斯の理を統ぶれば、行い失すと雖も名揚がり、兵挫くと雖も戦い勝つ。百敗すら猶お可なり、況んや再敗をや。此れ敗に因りて以て功を成すなり。故に知る、智者の事を挙ぐるや、禍に因りて福と為し、敗を転じて功と為すこと、古より然り。
現代語訳
魏の将軍王昶と陳泰の兵が敗れた。大将軍司馬師はそれを自分の過ちとした〔魏の人々は将軍が過ちを引き受けたことに感じ、皆喜び、報いようと思った〕。習鑿齒は論じて言う。「司馬大将軍は二度の敗北を引き受けて自分の過ちとし、過ちは消えて事業は栄えた。知恵があると言うべきだ」。部下が敗北を忘れて上に報いようと思えば、栄えまいとしても栄えずにはいられない。もし敗北を隠し、過ちを他人に押しつけ、咎をあらゆるもののせいにすれば、上下は心が離れ、賢者も愚者も力を出さなくなる。楚が二度敗れ晋が二度勝ったのはそのためで、ひどい誤りである。君主がこの道理をわきまえていれば、行いに失敗があっても名は上がり、兵がくじけても戦には勝つ。百度負けてもよい、まして二度くらいならなおさらだ。これが、敗北によって功を成すということである。だから、智者が事を行うときは、禍によって福とし、敗北を転じて功とするものだと知る。昔からそうである。
解説

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