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長短経 / 運命

虞南曰、「夫釋教有布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧與夫仁、義、禮、智、信、亦何殊?哉蓋以所修為因、其果為報。人修此六行、皆多不全、有一缺焉、果亦隨滅。」是以鬷明醜於貌而慧於心。趙壹髙於才而下於位、羅裒富而無義、原憲貧而有道、其不同也、如斯懸絶。興喪得失、咸必由之。由是言之、夫行已不周則諸福不備、故吉凶禍福不得齊也。故世人有操行不軌而富貴者矣、有積仁潔行而凶夭者矣。今下士庸夫、見比干之剖心、以為忠貞不足為也、聞偃王之亡國、以為仁義不足法也。不亦過乎?〕

新字:虞南曰、「夫釈教有布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧与夫仁、義、礼、智、信、亦何殊?哉蓋以所修為因、其果為報。人修此六行、皆多不全、有一欠焉、果亦随滅。」是以鬷明醜於貌而慧於心。趙壱高於才而下於位、羅裒富而無義、原憲貧而有道、其不同也、如斯懸絶。興喪得失、咸必由之。由是言之、夫行已不周則諸福不備、故吉凶禍福不得斉也。故世人有操行不軌而富貴者矣、有積仁潔行而凶夭者矣。今下士庸夫、見比干之剖心、以為忠貞不足為也、聞偃王之亡国、以為仁義不足法也。不亦過乎?〕

書き下し

虞南曰く「夫れ釈教に布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧有り。夫の仁・義・礼・智・信と、亦た何ぞ殊ならんや。蓋し修むる所を以て因と為し、其の果を報と為す。人の此の六行を修むるは、皆多く全からず。一の欠くる有れば、果も亦た随いて滅す」と。是を以て鬷明は貌に醜にして心に慧く、趙壹は才に高くして位に下く、羅裒は富みて義無く、原憲は貧しくして道有り。其の同じからざるや、斯くの如く懸絶す。興喪得失は、咸な必ず之に由る。是に由りて之を言えば、夫れ行い己に周からざれば則ち諸福備わらず。故に吉凶禍福は斉しきを得ず。故に世人に操行軌ならずして富貴なる者有り、仁を積み行いを潔くして凶夭なる者有り。今、下士庸夫は、比干の心を剖かるるを見て、以為えらく忠貞は為すに足らずと。偃王の国を亡ぼすを聞きて、以為えらく仁義は法とするに足らずと。亦た過ちならずや。〕

現代語訳

虞世南は言う。「仏教には布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの行いがある。儒教の仁・義・礼・智・信とどこが違おうか。修めたことを因とし、その結果を報いとするのである。人がこの六つの行いを修めても、たいていは完全ではない。一つでも欠ければ、その結果もそれに応じて消える」。だから鬷明は容貌は醜いが心は賢く、趙壹は才能は高いが地位は低く、羅裒は富んでいたが義がなく、原憲は貧しかったが道があった。その違いはこれほどかけ離れている。興亡や得失は、皆必ずここに由来する。これで言えば、自分の行いがすべてにわたって行き届いていなければ、あらゆる福がそろうことはない。だから吉凶禍福は一律にはならない。だから世の中には、行いが道に外れていても富み栄える者がおり、仁を積み行いを清くしても不幸や早死にに遭う者がいる。いま下級の士や凡人は、比干が心臓を裂かれたのを見て忠義は行う価値がないと思い、徐の偃王が仁義で国を滅ぼしたと聞いて仁義は手本にする価値がないと思う。誤りではないか。〕

解説

虞世南は、仏教の六つの修行も儒教の五常も、行いが原因となり結果が報いとなる点で同じだと言います。そして人はどれも完全には修められないので、欠けた部分の報いは得られない。容貌、才能、富、道のそれぞれが別々に与えられるのはそのためだ。だから行いの悪い者が富み、善い人が不幸に遭うこともある。それを見て忠義や仁義は無駄だと考えるのは誤りだと結ぶ。報いは部分ごとに来るので、一つの不運で全てを否定してはいけないのです。

この章句が説くこと

運命虞世南因果六波羅蜜仁義報い

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