長短経 / 恩生怨
傳稱諺曰、“非所怨、勿怨。寡人怨矣。”是知凡怨者、不怨於所疏、必怨於親宻。何以明之?髙子曰、〈“小弁〉、小人之詩也。”孟子曰、“何以言之?”髙子曰、“怨。”孟子曰、“固哉!髙叟之為詩也。有越人於此、關弓而射我、我則談笑而道之。無他、䟽之也。兄弟關弓而射我、我則泣涕而道之。無他、戚之也。然則〈小弁〉之怨、親親也。親親、仁也。”〈〔小弁〉、刺幽王也。太子之傅作〕
新字:伝称諺曰、“非所怨、勿怨。寡人怨矣。”是知凡怨者、不怨於所疏、必怨於親密。何以明之?高子曰、〈“小弁〉、小人之詩也。”孟子曰、“何以言之?”高子曰、“怨。”孟子曰、“固哉!高叟之為詩也。有越人於此、関弓而射我、我則談笑而道之。無他、䟽之也。兄弟関弓而射我、我則泣涕而道之。無他、戚之也。然則〈小弁〉之怨、親親也。親親、仁也。”〈〔小弁〉、刺幽王也。太子之傅作〕
書き下し
伝に諺を称して曰く「怨む所に非ざれば、怨むこと勿かれ。寡人怨めり」と。是に知る、凡そ怨む者は、疏き所を怨まず、必ず親密を怨む。何を以て之を明らかにせん。高子曰く「小弁は、小人の詩なり」と。孟子曰く「何を以て之を言う」と。高子曰く「怨めばなり」と。孟子曰く「固なるかな、高叟の詩を為むるや。越人此に有りて、弓を関きて我を射れば、我則ち談笑して之を道う。他無し、之を疏んずればなり。兄弟弓を関きて我を射れば、我則ち泣涕して之を道う。他無し、之に戚しめばなり。然らば則ち小弁の怨みは、親を親しむなり。親を親しむは、仁なり」と。〔小弁は、幽王を刺るなり。太子の傅の作なり。〕
現代語訳
『左伝』に諺を引いて言う。「恨むべき相手でなければ恨むな。私は恨んだ」。だから、およそ恨む者は疎遠な相手を恨まず、必ず親しい相手を恨むとわかる。何によってこれを明らかにするか。高子が「『小弁』はつまらない人の詩だ」と言うと、孟子は「なぜそう言うのか」と問うた。高子が「恨んでいるからだ」と言うと、孟子は言った。「頑固なことだ、高老人の詩の読み方は。ここに越の人がいて弓を引いて私を射ても、私は笑って話すだろう。ほかでもない、疎遠だからだ。兄弟が弓を引いて私を射れば、私は涙を流して話すだろう。ほかでもない、身近だからだ。だから『小弁』の恨みは、親を親しむからこそのものだ。親を親しむのは仁である」。〔『小弁』は周の幽王をそしる詩で、太子の守り役が作った。〕
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
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孟子・告子章句下公孫丑問うて曰く、「高子曰く、『小弁は小人の詩なり。』と。」孟子曰く、「何を以てか之を言う。」曰く、「怨みたればなり。」曰く、「固なるかな、高叟の詩を為むるや。此に人有り。越人、弓を關きて之を射んとせば、則ち己談笑して之を道わん。他無し。之を疏ずればなり。其の兄、弓を關きて之を射んとせば、則ち己涕泣を垂れて之を道わん。他無し。之を戚めばなり。小弁の怨めるは、親を親しめばなり。親を親しむは、仁なり。固なるかな、高叟の詩を為むるや。」曰く、「凱風は何を以てか怨みざる。」曰く、「凱風は、親の過ち小なる者なり。小弁は、親の過ち大なる者なり。親の過ち大にして怨みざるは、是れ愈々疏ずるなり。親の過ち小にして怨むは、是れ磯す可からざるなり。愈々疏ずるは、不孝なり。磯す可からざるも、亦た不孝なり。孔子曰く、『舜は其れ至孝なり。五十にして慕う。』」
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『講孟余話』告子下 第三章凱風は親の過ち小なる者なり。小弁は親の過ち大なる者なり。大とは天下国家の安危存亡の数に係ることを云ふ。小とは一家内の事のみなるを云ふ。周公の管蔡を誅するは天下を乱る故なり、所謂大なり。舜の象を封ずるは其の悪舜の一身に加はるに止まる故なり、所謂小なり。此の大小の弁、大いに名教に干ることなり、匆々にすべからず。「舜は其れ至孝なり、五十にして慕ふ」。朱註に、萬章上篇首章、怨慕の意を取り、慕を以て小弁の怨と引き合はするは、余未だ其の意を得ず。余謂へらく、慕の字怨の義あるに非ず、即ち思慕の意なり。小弁の怨も思慕より出づるなり。凱風の怨みざるも思慕より出づるなり。故に慕の一字を以て、怨不怨の両意を結びたる者なり。
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『長短経』恩生怨晋、韓簡をして秦の師を視しむ。云う「師は我より少なきも、闘士は我に倍す」と。公曰く「何の故ぞ」と。対えて曰く「出づるに其の資に因り、入るに其の寵を用い、饑えて其の粟を食う。三たび施されて報いず。来たる所以なり」と。〔秦の怒りて来たるを観れば、則ち至恩には必ず至怨有るを知る。〕杜鄴、王音に説きて曰く「鄴聞く、人情は恩深き者は其の養謹しみ、愛至る者は其の求め謹しむ。夫れ戚にして異を見ず、親にして殊を見ざれば〔戚は近なり。殊は疏に異なるを謂う〕、孰か怨み無しと謂わん。此れ棠棣・角弓の作らるる所なり」と。此に由りて之を観れば、故に知る、怨みなる者は、之を親しむなり。恩なる者は、怨みの生ずる所なり。察せざるべからず。
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『呻吟語』内篇・倫理・骨肉をして寇讐たらしむるは、皆責の一字に坐す恩禮は人情の自然より出づ、強ひて致す可からず。然れども禮は體面に係る、猶ほ人を責む可し。恩は根心より出づ、反つて責を以て之を失ふ。故に恩薄ければ之を結びて厚からしむ可く、恩離るれば之を結びて固からしむ可し。一たび相責望すれば、怨みと為りて滋〻深し。古の父子・兄弟・夫婦の間、骨肉をして寇讐たらしむるは、皆責の一字に坐するのみ。
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『講孟余話』萬章上 第三章十一月二十一日。「怒りを蔵さず、怨みを宿さず」、此の二句尤も善し。徒らに弟に於けるのみならず、仁人の心、他人に於けるも亦斯くの如し。論語に「怨みを匿して其の人を友とするは、左丘明之れを恥づ、丘も亦之れを恥づ」と云ふ、亦同意なり。凡そ人に交はるの道、怨怒する所あらば、直ちに是れを忠告直言すべし。若し忠告直言すること能はずんば、怨怒することなきに若かず。若し然らずして是れを胸中に蔵匿留蓄して、時を待ちて是れを発せんと欲するは、陰柔小人のする所にして、誠に臆病と云ふべし。君子の心は天の如し、怨怒する所あれば雷霆の怒りを発することもあれども、其の事解くるに至りては、又天晴れ日明らかなる如く、一毫も心中に残す所なし、是れ君子陽剛の徳なり。
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『呻吟語』内篇・修身・惡を惡むも君子の免れざる所其の惡を惡むこと嚴ならざる者は、必ず己に惡有る者なり。其の善を好むこと亟ならざる者は、必ず己に善無き者なり。仁人の善を好むや、啻に口より出づるのみならず。其の惡を惡むや、諸を四夷に迸けて與に中國を同じくせず。孟子曰く、「羞惡の心無きは、人に非ざるなり」と。則ち惡を惡むも亦た君子の免れざる所なり。但だ己が私と為りて、惡を作すは他人に在り、惡む可きに非ざるを恐るるのみ。若し民の惡む所にして惡まずんば、民の父母爲りと謂ひて可ならんや。