長短経 / 懼戒
袁紹為盟主、有驕色、陳留太守張邈正義責之。紹令曹操殺邈操不聼邈心不自安。及操東擊陶謙、令其將陳宫屯東郡。宫因説邈曰、「今天下分崩、雄傑並起、君擁十萬之衆、當四戰之地、撫劍顧盼、亦足以為人傑而反受制于人、不亦鄙乎?今州軍東征、其處空虚。吕布壯士、善戰無前。君迎之、共㨿兖州、觀天下之形勢、俟時事之變通、此亦縱横之一時也。」邈從之而反曹公。
新字:袁紹為盟主、有驕色、陳留太守張邈正義責之。紹令曹操殺邈操不聴邈心不自安。及操東撃陶謙、令其将陳宮屯東郡。宮因説邈曰、「今天下分崩、雄傑並起、君擁十万之衆、当四戦之地、撫剣顧盼、亦足以為人傑而反受制于人、不亦鄙乎?今州軍東征、其処空虚。呂布壮士、善戦無前。君迎之、共拠兗州、観天下之形勢、俟時事之変通、此亦縦横之一時也。」邈従之而反曹公。
書き下し
袁紹盟主と為り、驕色有り。陳留太守張邈、正義もて之を責む。紹、曹操をして邈を殺さしめんとするも、操聴かず。邈、心自ら安んぜず。操の東のかた陶謙を撃つに及び、其の将陳宮をして東郡に屯せしむ。宮因りて邈に説きて曰く「今、天下分崩し、雄傑並び起こる。君は十万の衆を擁し、四戦の地に当たり、剣を撫して顧盼すれば、亦た以て人傑と為るに足る。而るに反りて制を人に受く。亦た鄙しからずや。今、州軍東征し、其の処空虚なり。呂布は壮士にして、善く戦いて前無し。君之を迎えて、共に兗州に拠り、天下の形勢を観、時事の変通を俟たば、此れ亦た縦横の一時なり」と。邈之に従いて曹公に反す。
現代語訳
袁紹が盟主となると、驕った様子を見せた。陳留太守張邈は正義をもって袁紹を責めた。袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたが、曹操は聞かなかった。それでも張邈は心が落ち着かなかった。曹操が東の陶謙を攻めたとき、部将の陳宮に東郡を守らせた。陳宮はそこで張邈に説いた。「いま天下は分かれ崩れ、英雄豪傑が並び立っています。あなたは十万の兵を擁し、四方から攻められる地にあり、剣をなでて左右を見回せば、人傑と呼ばれるに十分です。それなのに人の支配を受けているのは、情けなくはありませんか。いま州の軍は東へ遠征し、ここは空です。呂布は勇士で、戦えば向かうところ敵なしです。呂布を迎えて一緒に兗州に拠り、天下の形勢を見て時の変化を待てば、これも合従連衡の一つの好機です」。張邈はこれに従って曹操に背いた。
解説

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自警録・第九章 心の独立と体の独立・心の独立と誤解しやすき考えただ注意すべきはこの精神を誤解して扶持をくれる人に背き、人に拘わらねば、それが心の独立なりと思うことで、これは疑いもなく間違いである。世には往々にして自分の会社のアラをさらけ出し、はなはだしきは親の罪なり秘密なりを発き、あるいは上官の悪口を言ったりして、それで我が思想の自由なりと思うは、物によるべきことであるけれども、おおいに熟慮を要する。 孔子も子は父のために隠し、父は子のために隠すと教えたごとく、隠すことが国家に危害を与うるならいざ知らず、会社の内幕を語りいたずらに他に告ぐるがごときは裏切り同然で、これを思想の独立と混同すべきでない。身は一定の国籍の下にありて、法律の保護を受け、もって生命財産の安固を保ちながら、その国の不為を謀るごときは、決して国民たる個人の独立行為といわれぬ。こんなことは売国奴の所為として誰も卑む。それと同じく役所や会社に勤務する者が上官や重役と異なる独特の意見を有するなら、陰でかれこれ言わずに第一着に社長なり長官なりに意見を陳述すべきである。 周の武王が殷の紂王を伐たんと出征したとき、民みな武王の意を迎えたが、伯夷叔斉のみは独立行動に出でて、武王の馬を叩いて諫めた。左右の者ども両人を兵せんとした。すなわち輿論は伯夷叔斉を罪せんとした。このとき太公望は独特の意見を述べて、 「此義人なり」 といって扶けて去らしめた。伯夷叔斉も太公も群衆に逆らった心の独立は好みすべきであるが、もし二人の兄弟が武王に反対して、密かに出版物を播き散らしたり、あるいは隠に徒党を組んだり、あるいは公然と演説するにしても事実を曲げて武王や太公の政策やら人身を攻撃したならば、彼らは決して義人でもなければ、善人でもなく、後世は彼らを乱臣賊子と呼ぶであろう。なぜなれば、彼らの考えは輿論とは異なり、いわゆる独立思想であったとしても、同意を求むることあれば、やはり彼らには他人を頼む心のあることが判かる。しかるに彼らは真に心の独立を重んじ、ついには我が心に叶わぬ周の粟を食わずとて首陽山に隠れ、歌を詠じて餓死したところは、たしかに両人は心の独立を重んじた証拠である。