長短経 / 臣行
世稱酈寄賣交、以其紿吕祿也、于理何如?班固曰、“夫賣交者、謂見利忘義也。若寄、父為功臣而執刼雖摧吕祿、以安社稷、義存君親可也。”或曰、“靳允違親守城、可謂忠乎?
新字:世称酈寄売交、以其紿呂禄也、于理何如?班固曰、“夫売交者、謂見利忘義也。若寄、父為功臣而執劫雖摧呂禄、以安社稷、義存君親可也。”或曰、“靳允違親守城、可謂忠乎?
書き下し
世に酈寄の交わりを売ると称するは、其の呂禄を紿けるを以てなり。理に於て何如。班固曰く「夫れ交わりを売る者とは、利を見て義を忘るるを謂うなり。寄の若きは、父は功臣と為りて執劫せらる。呂禄を摧くと雖も、以て社稷を安んず。義は君親に存す、可なり」と。或るひと曰く「靳允、親に違いて城を守る。忠と謂う可きか」と。
現代語訳
世間で酈寄が友を売ったと言うのは、呂禄をだましたからである。道理としてはどうか。班固は言った。「交わりを売るというのは、利益を見て義を忘れることをいう。酈寄の場合は、父が功臣でありながら人質に取られていた。呂禄を挫いたとはいえ、それによって国家を安んじた。義は君主と親にある。よいのである」。ある人が言った。「靳允が親に背いて城を守ったのは、忠と言えますか」。
解説
酈寄は呂氏一族の呂禄と親友でしたが、その信頼を利用して兵権を手放させ、呂氏を滅ぼしました。世間は友を売ったと非難した。班固の反論は定義から入ります。交わりを売るとは、利益を見て義を忘れること。酈寄は利益を得ていないし、父の命と国家がかかっていた。だから当たらない、と。非難の言葉が実際に何を指すのかを確かめる。議論の作法として正確です。

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臣行酈寄呂禄班固裏切り定義
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