長短経 / 七雄略
齊湣王將之魯、夷維子為御、執䇿而從、謂魯人曰、『子將何以待吾君?』魯人曰、『吾將以十大牢待子君。』夷維子曰、『子安取禮而來?彼吾君者、天子也。天子巡狩、諸侯避舍、納管籥、攝袵抱几視膳於堂下、天子已食、乃退而聽朝也。』魯人投其籥、不果内、不得入於魯。將之薛、假塗於鄒。當是時、鄒君死、湣王欲入弔、夷維子謂鄒之孤曰、『天子弔、主人必將倍殯、設几北面於南方、然後天子南面弔。』鄒之羣臣曰、『必若此、將伏劒而死!』故不敢入於鄒。鄒、魯之大夫、生則不能事養、死則不得賻禭然且欲行天子之禮於鄒、魯、鄒、魯之臣不果内。
新字:斉湣王将之魯、夷維子為御、執策而従、謂魯人曰、『子将何以待吾君?』魯人曰、『吾将以十大牢待子君。』夷維子曰、『子安取礼而来?彼吾君者、天子也。天子巡狩、諸侯避舎、納管籥、摂袵抱几視膳於堂下、天子已食、乃退而聴朝也。』魯人投其籥、不果内、不得入於魯。将之薛、仮塗於鄒。当是時、鄒君死、湣王欲入弔、夷維子謂鄒之孤曰、『天子弔、主人必将倍殯、設几北面於南方、然後天子南面弔。』鄒之羣臣曰、『必若此、将伏劒而死!』故不敢入於鄒。鄒、魯之大夫、生則不能事養、死則不得賻禭然且欲行天子之礼於鄒、魯、鄒、魯之臣不果内。
書き下し
斉の湣王、将に魯に之かんとす。夷維子、御と為り、策を執りて従う。魯人に謂いて曰く「子、将に何を以て吾が君を待たんとするか」と。魯人曰く「吾、将に十大牢を以て子の君を待たん」と。夷維子曰く「子、安くにか礼を取りて来たるか。彼の吾が君なる者は、天子なり。天子巡狩すれば、諸侯は舎を避け、管籥を納れ、袵を摂し几を抱き、膳を堂下に視る。天子已に食らいて、乃ち退きて朝を聴くなり」と。魯人、其の籥を投じ、果たして内れず。魯に入るを得ず。将に薛に之かんとし、塗を鄒に假る。是の時に当たり、鄒君死す。湣王、入りて弔せんと欲す。夷維子、鄒の孤に謂いて曰く「天子弔すれば、主人は必ず将に殯に倍き、几を設けて南方に北面し、然る後に天子、南面して弔す」と。鄒の群臣曰く「必ず此くの若くんば、将に剣に伏して死せん」と。故に敢えて鄒に入らず。鄒・魯の大夫は、生けば則ち事え養う能わず、死すれば則ち賻襚するを得ず。然れども且つ天子の礼を鄒・魯に行わんと欲するも、鄒・魯の臣、果たして内れず。
現代語訳
斉の湣王が魯へ行こうとした。夷維子が御者となり、鞭を持って従った。魯の人に言った。「あなたがたはどうやってわが君をもてなすのか」。魯の人は「十の大牢でおもてなしします」と言った。夷維子は言った。「あなたはどこから礼を持ってきたのか。わが君は天子である。天子が巡狩すれば諸侯は宿を空け、鍵を差し出し、衣の裾を整え几を抱いて、堂の下で食事の毒味を見る。天子が食べ終わってから、退いて政務を聴くのだ」。魯の人は鍵を投げ捨て、ついに入れなかった。魯に入れなかった。薛へ行こうとして鄒を通ろうとした。ちょうど鄒の君が死んだ。湣王は入って弔おうとした。夷維子は鄒の跡継ぎに言った。「天子が弔うときは、喪主は必ず柩に背を向け、几を設けて南の方角で北を向き、そのあと天子が南を向いて弔うのだ」。鄒の群臣は言った。「必ずそうしろというなら、剣に伏して死ぬ」。そこで鄒に入れなかった。鄒と魯の大夫は、生きているときは仕えて養えず、死んでからは香典も送れない身分である。それでも天子の礼を鄒と魯で行おうとしたが、鄒と魯の臣はついに入れなかった。
解説
この章句が説くこと
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