長短経 / 論士
《語》云“瓊艘瑶楫、無渉川之用、金弧玉弦無激矢之能。是以分絜而無政事者、非撥亂之器、儒雅而乏治理者、非翼亮之士。”何以明之?魏無知見陳平於漢王、漢王用之。綘灌等讒平曰、“平盗嫂受金。”漢王讓魏無知。無知曰、“臣之所言者、能也、陛下所聞者、行也。今有尾生孝己之行、而無益於勝負之數、陛下假用之乎?今楚漢相距、臣進竒謀之士、顧其計、誠足以利國家耳!盗嫂受金、又安足疑哉?”漢王曰、“善。”黄石公曰、“有清白之士者、不可以爵祿得、守節之士、不可以威脅。
新字:《語》云“瓊艘瑶楫、無渉川之用、金弧玉弦無激矢之能。是以分絜而無政事者、非撥乱之器、儒雅而乏治理者、非翼亮之士。”何以明之?魏無知見陳平於漢王、漢王用之。綘灌等讒平曰、“平盗嫂受金。”漢王譲魏無知。無知曰、“臣之所言者、能也、陛下所聞者、行也。今有尾生孝己之行、而無益於勝負之数、陛下仮用之乎?今楚漢相距、臣進奇謀之士、顧其計、誠足以利国家耳!盗嫂受金、又安足疑哉?”漢王曰、“善。”黄石公曰、“有清白之士者、不可以爵禄得、守節之士、不可以威脅。
書き下し
語に云う「瓊艘瑤楫は川を渉るの用無く、金弧玉弦は矢を激するの能無し。是を以て分絜にして政事無き者は、乱を撥むるの器に非ず。儒雅にして治理に乏しき者は、翼亮の士に非ず」と。何を以て之を明らかにせん。魏無知、陳平を漢王に見えしめ、漢王之を用う。絳・灌等、平を讒して曰く「平は嫂を盗み金を受く」と。漢王、魏無知を譲む。無知曰く「臣の言う所の者は能なり。陛下の聞く所の者は行なり。今、尾生・孝己の行有りて、勝負の数に益無くんば、陛下仮に之を用いんか。今、楚漢相い距る。臣は奇謀の士を進む。顧だ其の計、誠に以て国家を利するに足るのみ。嫂を盗み金を受くること、又た安くんぞ疑うに足らんや」と。漢王曰く「善し」と。黄石公曰く「清白の士有る者は、爵禄を以て得可からず。守節の士は、威を以て脅す可からず。
現代語訳
ある書物にこうある。「玉の舟や瑤の櫂では川を渡る役に立たず、金の弓や玉の弦では矢を飛ばす力がない。だから清廉で身ぎれいだが政務ができない者は、乱を治める器ではない。儒学に通じ上品だが統治の実務に乏しい者は、君主を助ける士ではない」。なぜそう言えるのか。魏無知が陳平を漢王に引き合わせ、漢王はこれを用いた。絳侯や灌嬰らが陳平をそしって言った。「陳平は兄嫁と通じ、賄賂を受けています」。漢王は魏無知を責めた。無知は言った。「私が申しましたのは能力です。陛下がお聞きになったのは品行です。いま尾生や孝己のような品行があっても、勝敗に何の足しにもならないなら、陛下はそれでも用いられますか。いま楚と漢が対峙しています。私は奇抜な計略の士を推挙しました。ただその計略が、本当に国家を利するに足るというだけです。兄嫁と通じ賄賂を受けたことなど、どうして疑うに足りましょうか」。漢王は「よろしい」と言った。黄石公はこう言った。「清廉潔白の士は、爵位や俸禄で得ることはできない。節を守る士は、威圧で脅すことはできない。
解説

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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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