長短経 / 論士
諺曰、“浴不必江海、要之去垢、馬不必騏驥、要之善走、士不必賢也、要之知道、女不必貴種、要之貞好。”何以明之?淳于髠謂齊宣王曰、“古者好馬、王亦好馬、古者好味、王亦好味、古者好色、王亦好色、古者好士、王獨不好!”王曰、“國無士耳。有則寡人亦悅之。”髠曰、“古有驊騮今之無有、王選於衆、王好馬矣、古有豹象之胎、今之無有、王選於衆、王好味矣、古有毛嬙、西施、今之無有、王選於衆、王好色矣、王必待堯舜禹湯之士、而後好之、則堯舜禹湯之士、亦不好王矣。”
新字:諺曰、“浴不必江海、要之去垢、馬不必騏驥、要之善走、士不必賢也、要之知道、女不必貴種、要之貞好。”何以明之?淳于髠謂斉宣王曰、“古者好馬、王亦好馬、古者好味、王亦好味、古者好色、王亦好色、古者好士、王独不好!”王曰、“国無士耳。有則寡人亦悦之。”髠曰、“古有驊騮今之無有、王選於衆、王好馬矣、古有豹象之胎、今之無有、王選於衆、王好味矣、古有毛嬙、西施、今之無有、王選於衆、王好色矣、王必待堯舜禹湯之士、而後好之、則堯舜禹湯之士、亦不好王矣。”
書き下し
諺に曰く「浴するは必ずしも江海ならず、之を垢を去るに要む。馬は必ずしも騏驥ならず、之を善く走るに要む。士は必ずしも賢ならざるなり、之を道を知るに要む。女は必ずしも貴種ならず、之を貞好に要む」と。何を以て之を明らかにせん。淳于髠、斉の宣王に謂いて曰く「古者は馬を好む、王も亦た馬を好む。古者は味を好む、王も亦た味を好む。古者は色を好む、王も亦た色を好む。古者は士を好む、王独り好まず」と。王曰く「国に士無きのみ。有らば則ち寡人も亦た之を悦ばん」と。髠曰く「古に驊騮有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は馬を好むなり。古に豹象の胎有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は味を好むなり。古に毛嬙・西施有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は色を好むなり。王、必ず堯舜禹湯の士を待ちて而る後に之を好まば、則ち堯舜禹湯の士も、亦た王を好まざらん」と。
現代語訳
ことわざにこうある。「水浴びは必ずしも大河や海でなくてよい。垢が落ちればよい。馬は必ずしも名馬でなくてよい。よく走ればよい。士は必ずしも賢者でなくてよい。道を知っていればよい。女は必ずしも高貴な家柄でなくてよい。貞節で好ましければよい」。なぜそう言えるのか。淳于髠が斉の宣王に言った。「昔の人は馬を好みました。王もまた馬を好まれます。昔の人は美味を好みました。王もまた美味を好まれます。昔の人は美女を好みました。王もまた美女を好まれます。昔の人は士を好みました。王だけが好まれません」。王は言った。「国に士がいないだけだ。いれば私も喜ぶ」。淳于髠は言った。「昔は驊騮という名馬がいましたが、今はいません。王は多くの中から選んでおられる。王は馬を好んでおられます。昔は豹や象の胎児という珍味がありましたが、今はありません。王は多くの中から選んでおられる。王は美味を好んでおられます。昔は毛嬙や西施がいましたが、今はいません。王は多くの中から選んでおられる。王は美女を好んでおられます。王が必ず堯舜禹湯の時代の士を待ってから好むというなら、堯舜禹湯の士のほうも王を好みますまい」。
解説

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『長短経』論士〔魯仲連、孟嘗君に謂いて曰く「君の士を好むは未だしなり」と。孟嘗君曰く「文、士を得ざる故なり」と。対えて曰く「君の廐馬百乗、繍衣を被て菽粟を食わざるは無し。豈に皆な騏驥騄耳ならんや。後宮の十妃、皆な縞紵を衣て粱肉を食う。豈に毛嬙・西施有らんや。色と馬とは今の世に取りて、士は何ぞ必ずしも古を待たんや。故に曰く『君の士を好むは未だしなり』」と。張敞の朱邑に与うる書に曰く「飢うる者は糟糠を甘しとし、飽く者は粱肉に飫く。何となれば、有無の勢い異なればなり。昔、陳平は賢なりと雖も、魏倩を須ちて而る後に進む。韓信は奇なりと雖も、蕭何に頼りて而る後に信ぜらる。故に士は各々其の時に及ぶの宜しきに達す。若し古の英雋を待ち、必ず伊尹・呂望の若くにして而る後に之を薦めば、則ち此の人は足下に因りて進まざらん」と。淮南に曰く「腰裊・飛兎を待ちて而る後に駕せば、則ち世に車に乗る莫からん。西施・洛浦を待ちて而る後に妃とせば、則ち終身家せざらん。然れども古の英雋を待たずして自ら足る者は、其の有る所に因りて遂に之を用うればなり」と。〕
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