長短経 / 知人
又有察色。察色、謂心氣内蓄、皆可以色取之。夫誠智、必有難盡之色〔又曰、誠智、必有明達之色。、〕誠仁、必有可尊之色〔又曰、誠仁、必有溫柔之色。、〕誠勇、必有難懾之色〔又曰、誠勇、必有矜奮之色也、〕誠忠、必有可觀之色、誠潔必有難汙之色、誠貞、必有可信之色。質色浩然固以安、偽色曼然亂以煩。此之謂察色。
新字:又有察色。察色、謂心気内蓄、皆可以色取之。夫誠智、必有難尽之色〔又曰、誠智、必有明達之色。、〕誠仁、必有可尊之色〔又曰、誠仁、必有温柔之色。、〕誠勇、必有難懾之色〔又曰、誠勇、必有矜奮之色也、〕誠忠、必有可観之色、誠潔必有難汙之色、誠貞、必有可信之色。質色浩然固以安、偽色曼然乱以煩。此之謂察色。
書き下し
又た察色有り。察色とは、心気内に蓄えらるるは、皆な色を以て之を取る可きを謂う。夫れ誠の智には、必ず尽くし難きの色有り。〔又た曰く、誠の智には、必ず明達の色有り。〕誠の仁には、必ず尊ぶ可きの色有り。〔又た曰く、誠の仁には、必ず温柔の色有り。〕誠の勇には、必ず懾し難きの色有り。〔又た曰く、誠の勇には、必ず矜奮の色有るなり。〕誠の忠には、必ず観る可きの色有り。誠の潔には、必ず汙し難きの色有り。誠の貞には、必ず信ず可きの色有り。質色は浩然として固く以て安く、偽色は曼然として乱れ以て煩わし。此れ之を察色と謂う。
現代語訳
また察色というものがある。察色とは、心気が内に蓄えられているものは、すべて顔色から取れるということである。まことの智には、必ず汲み尽くしがたい色がある。〔またこうも言う。まことの智には、必ず明らかに通じた色がある。〕まことの仁には、必ず尊ぶべき色がある。〔またこうも言う。まことの仁には、必ず温かく柔らかな色がある。〕まことの勇には、必ずおびえさせがたい色がある。〔またこうも言う。まことの勇には、必ず奮い立つ色がある。〕まことの忠には、必ず見るに足る色がある。まことの潔には、必ず汚しがたい色がある。まことの貞には、必ず信じるに足る色がある。本物の色は広々として固く落ち着いており、偽りの色はぼんやりと乱れて煩わしい。これを察色という。
解説
この章句が説くこと
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