徒然草 / 第161段
花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後七日ともいへど、立春より七十五日、おほやう違はず。
書き下し
花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後七日ともいへど、立春より七十五日、おほやう違はず。
現代語訳
桜の花の盛りは、冬至から百五十日後とも、春分の後七日後とも言うが、立春から七十五日後というのが、だいたい違わない。
解説
桜の花の盛りの時期について、冬至から百五十日、春分の後七日など諸説あるものの、立春から七十五日というのがおおむね実情に合うと述べる、極めて短い自然観察の段です。旧暦における具体的な暦日の計算を通じて、桜の開花時期という自然現象を正確に把握しようとする実証的な姿勢が表れています。徒然草には花の美しさや無常観を情緒的に語る段が多い一方で、このように暦法を用いて客観的に時期を検証しようとする段も混在しており、兼好が感性だけでなく実証的な観察眼も併せ持っていたことをうかがわせます。現代でも桜の開花予想は気象データに基づいて算出されますが、暦の上での日数計算から季節の巡りを推測しようとする発想の原型を、この短い一段に見ることができます。何気なく愛でている自然の美しさの背後にも、規則性を見出し検証しようとする視点を持つことの面白さを教えてくれる段です。
この章句が説くこと
花の盛り冬至立春暦季節自然観察
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『楽訓』巻之中・節序されど日頃またせまたせて、やうやう咲けるが、あくまで見る程もなく、疾く散るは、又うらめし。よしさらば散るまでも見じ山桜、花のさかりを面かげにして。古の人のよみけんも、後の思出にせんとにや、情ふかし。此折から、春雨のしきしきふれば、我がやどの園の桜は、如何に有らんと、うしろめたし。柳緑に花紅にして、春の色をゑがき出せるは、いと麗しき眺なり。春やうやう深くなれば、風和かに、日あたたかに、百草芳をあらそひ、群花艶をきそふ折なれば、いづれの処か春の無からんや。かかる景色にふれては、人の心も浮立ちて、思ふどちかい連ね、春を尋ねてあくがれありき、ひねもす花を眺くらすこそ、目を恣にし、心を快くするわざなれ。
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