史記 / 高祖本紀
攻下邑,拔之。還軍豐。聞項梁在薛,從騎百餘往見之。項梁益沛公卒五千人,五大夫將十人。沛公還,引兵攻豐。從項梁月餘,項羽已拔襄城還。項梁盡召別將居薛。聞陳王定死,因立楚後懷王孫心為楚王,治盱臺。項梁號武信君。居數月,北攻亢父,救東阿,破秦軍。齊軍歸,楚獨追北,使沛公、項羽別攻城陽,屠之。軍濮陽之東,與秦軍戰,破之。秦軍復振,守濮陽,環水。楚軍去而攻定陶,定陶未下。沛公與項羽西略地至雍丘之下,與秦軍戰,大破之,斬李由。還攻外黃,外黃未下。項梁再破秦軍,有驕色。宋義諫,不聽。秦益章邯兵,夜銜枚擊項梁,大破之定陶,項梁死。沛公與項羽方攻陳留,聞項梁死,引兵與呂將軍俱東。呂臣軍彭城東,項羽軍彭城西,沛公軍碭。章邯已破項梁軍,則以為楚地兵不足憂,乃渡河,北擊趙,大破之。當是之時,趙歇為王,秦將王離圍之鉅鹿城,此所謂河北之軍也。秦二世三年,楚懷王見項梁軍破,恐,徙盱臺都彭城,并呂臣、項羽軍自將之。以沛公為碭郡長,封為武安侯,將碭郡兵。封項羽為長安侯,號為魯公。呂臣為司徒,其父呂青為令尹。趙數請救,懷王乃以宋義為上將軍,項羽為次將,范增為末將,北救趙。
新字:攻下邑,抜之。還軍豊。聞項梁在薛,従騎百余往見之。項梁益沛公卒五千人,五大夫将十人。沛公還,引兵攻豊。従項梁月余,項羽已抜襄城還。項梁尽召別将居薛。聞陳王定死,因立楚後懐王孫心為楚王,治盱台。項梁号武信君。居数月,北攻亢父,救東阿,破秦軍。斉軍帰,楚独追北,使沛公、項羽別攻城陽,屠之。軍濮陽之東,与秦軍戦,破之。秦軍復振,守濮陽,環水。楚軍去而攻定陶,定陶未下。沛公与項羽西略地至雍丘之下,与秦軍戦,大破之,斬李由。還攻外黄,外黄未下。項梁再破秦軍,有驕色。宋義諫,不聴。秦益章邯兵,夜銜枚撃項梁,大破之定陶,項梁死。沛公与項羽方攻陳留,聞項梁死,引兵与呂将軍倶東。呂臣軍彭城東,項羽軍彭城西,沛公軍碭。章邯已破項梁軍,則以為楚地兵不足憂,乃渡河,北撃趙,大破之。当是之時,趙歇為王,秦将王離囲之鉅鹿城,此所謂河北之軍也。秦二世三年,楚懐王見項梁軍破,恐,徙盱台都彭城,并呂臣、項羽軍自将之。以沛公為碭郡長,封為武安侯,将碭郡兵。封項羽為長安侯,号為魯公。呂臣為司徒,其父呂青為令尹。趙数請救,懐王乃以宋義為上将軍,項羽為次将,范增為末将,北救趙。
書き下し
下邑を攻め、之を抜く。軍を豊に還す。項梁の薛に在るを聞き、騎百余を従へて往きて之に見ゆ。項梁沛公に卒五千人、五大夫の将十人を益す。沛公還り、兵を引きて豊を攻む。項梁に従ふこと月余、項羽已に襄城を抜きて還る。項梁尽く別将を召して薛に居らしむ。陳王の定めて死せるを聞き、因りて楚の後懐王の孫心を立てて楚王と為し、盱台に治す。項梁武信君と号す。居ること数月、北のかた亢父を攻め、東阿を救ひ、秦の軍を破る。斉の軍帰り、楚独り北ぐるを追ひ、沛公・項羽をして別に城陽を攻めしめ、之を屠る。濮陽の東に軍し、秦の軍と戦ひ、之を破る。秦の軍復た振るひ、濮陽を守り、水を環らす。楚の軍去りて定陶を攻む、定陶未だ下らず。沛公項羽と西のかた地を略して雍丘の下に至り、秦の軍と戦ひ、大いに之を破り、李由を斬る。還りて外黄を攻む、外黄未だ下らず。項梁再び秦の軍を破り、驕る色有り。宋義諫むるも、聴かず。秦章邯の兵を益し、夜枚を銜みて項梁を撃ち、大いに之を定陶に破り、項梁死す。沛公項羽と方に陳留を攻む、項梁の死を聞き、兵を引きて呂将軍と倶に東す。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。章邯已に項梁の軍を破り、則ち以為へらく楚の地の兵は憂ふるに足らずと、乃ち河を渡り、北のかた趙を撃ち、大いに之を破る。是の時に当たりて、趙歇王為り、秦の将王離之を鉅鹿城に囲む、此れ所謂河北の軍なり。秦の二世三年、楚の懐王項梁の軍の破るるを見て、恐れ、盱台より徙りて彭城に都し、呂臣・項羽の軍を并せて自ら之に将たり。沛公を以て碭郡の長と為し、封じて武安侯と為し、碭郡の兵に将たらしむ。項羽を封じて長安侯と為し、号して魯公と為す。呂臣を司徒と為し、其の父呂青を令尹と為す。趙数(しばしば)救ひを請ふ、懐王乃ち宋義を以て上将軍と為し、項羽を次将と為し、范増を末将と為し、北のかた趙を救はしむ。
現代語訳
沛公は下邑を攻めて落とした。軍を豊に戻した。項梁が薛にいると聞くと、騎兵百余を従えて会いに行った。項梁は沛公に兵五千人と、五大夫(爵位の一つ)の将十人を加勢した。沛公は戻って兵を率い、豊を攻めた。項梁に従って一か月余りたった頃、項羽が襄城を落として戻ってきた。項梁は別働隊の将を皆呼び集めて薛に置いた。陳王が確かに死んだと聞くと、楚の王家の子孫で懐王の孫の心を立てて楚王とし、盱台で政務を執らせた。項梁は武信君と号した。数か月して、北の亢父を攻め、東阿を救って秦の軍を破った。斉の軍は帰ったが、楚だけは敗走する秦軍を追い、沛公と項羽に別働隊として城陽を攻めさせ、これを皆殺しにした。濮陽の東に陣を置いて秦の軍と戦い、これを破った。秦の軍は再び勢いを盛り返し、濮陽を守って、周りに水をめぐらした。楚の軍はそこを離れて定陶を攻めたが、定陶はまだ落ちなかった。沛公は項羽とともに西へ進んで土地を攻め取りながら雍丘のもとに至り、秦の軍と戦って大いにこれを破り、李由を斬った。引き返して外黄を攻めたが、外黄はまだ落ちなかった。項梁は再び秦の軍を破り、驕りの色が見えた。宋義が諫めたが、聞き入れなかった。秦は章邯の兵を増強し、夜に兵士に枚(声を出さぬよう口にくわえる木片)をくわえさせて項梁を襲い、定陶で大いにこれを破り、項梁は戦死した。沛公は項羽とともにちょうど陳留を攻めていたが、項梁の死を聞くと、兵を率いて呂将軍(呂臣)とともに東へ退いた。呂臣は彭城の東に、項羽は彭城の西に、沛公は碭に陣を置いた。章邯は項梁の軍を破ると、楚の地の兵はもはや心配するに足りないと考え、黄河を渡って北の趙を攻め、大いにこれを破った。このとき趙歇が趙王で、秦の将王離が趙王を鉅鹿城に包囲した。これがいわゆる河北の軍である。秦の二世皇帝の三年(前207年)、楚の懐王は項梁の軍が破れたのを見て恐れ、盱台から移って彭城を都とし、呂臣と項羽の軍を併せて自ら指揮した。沛公を碭郡の長とし、武安侯に封じて碭郡の兵を率いさせた。項羽を長安侯に封じ、魯公と号させた。呂臣を司徒とし、その父の呂青を令尹とした。趙が何度も救援を求めてきたので、懐王は宋義を上将軍、項羽を次将、范増を末将として、北へ趙の救援に向かわせた。
解説
関連する章句
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史記 項羽本紀西のかた秦の軍を濮陽の東に破る、秦の兵収まりて濮陽に入る。沛公・項羽乃ち定陶を攻む。定陶未だ下らず、去りて、西のかた地を略して雝丘に至り、大いに秦の軍を破り、李由を斬る。還りて外黄を攻む、外黄未だ下らず。項梁東阿より起こり、西して、(北)[比](ころほひ)定陶に至り、再び秦の軍を破り、項羽等又李由を斬り、益々秦を軽んじ、驕る色有り。宋義乃ち項梁を諫めて曰く、「戦ひ勝ちて将驕り卒惰るる者は敗る。今卒少しく惰る、秦の兵日に益す、臣君の為に之を畏る。」と。項梁聴かず。乃ち宋義をして斉に使ひせしむ。道に斉の使者高陵君顕に遇ひて、曰く、「公将に武信君に見えんとするか。」と。曰く、「然り。」と。曰く、「臣武信君の軍必ず敗れんと論ず。公徐ろに行かば即ち死を免れ、疾く行かば則ち禍に及ばん。」と。秦果たして悉く兵を起こして章邯に益し、楚の軍を撃ち、大いに之を定陶に破り、項梁死す。沛公・項羽外黄を去りて陳留を攻む、陳留堅守して下す能はず。沛公・項羽相与に謀りて曰く、「今項梁の軍破れ、士卒恐る。」と。乃ち呂臣の軍と倶に兵を引きて東す。呂臣は彭城の東に軍し、項羽は彭城の西に軍し、沛公は碭に軍す。章邯已に項梁の軍を破り、則ち以為へらく楚の地の兵は憂ふるに足らずと、乃ち河を渡りて趙を撃ち、大いに之を破る。此の時に当たりて、趙歇王為り、陳余将為り、張耳相為り、皆走りて鉅鹿城に入る。章邯王離・渉間をして鉅鹿を囲ましめ、章邯其の南に軍し、甬道を築きて之に粟を輸る。陳余将為り、卒数万人を将ゐて鉅鹿の北に軍す、此れ所謂河北の軍なり。楚の兵已に定陶に破れ、懐王恐れ、盱台より彭城に之き、項羽・呂臣の軍を并せて自ら之に将たり。呂臣を以て司徒と為し、其の父呂青を以て令尹と為す。沛公を以て碭郡の長と為し、封じて武安侯と為し、碭郡の兵に将たらしむ。
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史記 項羽本紀朱雞石の軍敗れ、亡げて胡陵に走る。項梁乃ち兵を引きて薛に入り、雞石を誅す。項梁前に項羽をして別に襄城を攻めしむ、襄城堅守して下らず。已に抜き、皆之を阬(あな)にす。還りて項梁に報ず。項梁陳王の定めて死せるを聞き、諸別将を召して薛に会して事を計る。此の時沛公も亦沛に起こり、焉に往く。居鄛(きょそう)の人范増、年七十、素より家に居り、奇計を好む、往きて項梁に説きて曰く、「陳勝の敗るるは固より当たれり。夫れ秦六国を滅ぼすに、楚最も罪無し。懐王秦に入りて反らざりしより、楚人之を憐れむこと今に至る、故に楚の南公曰く『楚は三戸と雖も、秦を亡ぼすは必ず楚ならん』と。今陳勝事を首むるも、楚の後を立てずして自ら立つ、其の勢長からず。今君江東に起こり、楚の蠭起の将皆争ひて君に附く者は、君の世世楚の将たるを以て、能く復た楚の後を立つと為せばなり。」と。是に於て項梁其の言を然りとし、乃ち楚の懐王の孫心を民間に求む、人の為に羊を牧す、立てて以て楚の懐王と為す、民の望む所に従ふなり。陳嬰楚の上柱国と為り、五県に封ぜられ、懐王と盱台(くい)に都す。項梁自ら号して武信君と為す。居ること数月、兵を引きて亢父を攻め、斉の田栄・司馬龍且の軍と東阿を救ひ、大いに秦の軍を東阿に破る。田栄即ち兵を引きて帰り、其の王仮を逐ふ。仮亡げて楚に走る。仮の相田角亡げて趙に走る。角の弟田間は故の斉の将にして、趙に居りて敢へて帰らず。田栄田儋の子市を立てて斉王と為す。項梁已に東阿の下の軍を破り、遂に秦の軍を追ふ。数(しばしば)使をして斉の兵を趣(うなが)さしめ、与に倶に西せんと欲す。田栄曰く、「楚田仮を殺し、趙田角・田間を殺さば、乃ち兵を発せん。」と。項梁曰く、「田仮は与国の王為り、窮して来りて我に従ふ、之を殺すに忍びず。」と。趙も亦田角・田間を殺して以て斉に市(う)らず。斉遂に肯へて兵を発して楚を助けず。項梁沛公及び項羽をして別に城陽を攻めしめ、之を屠る。
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史記 高祖本紀沛公をして西のかた地を略して関に入らしむ。諸将と約す、先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと。是の時に当たりて、秦の兵彊く、常に勝ちに乗じて北ぐるを逐ふ、諸将先づ関に入るを利とする莫し。独り項羽秦の項梁の軍を破りしを怨み、奮ひて、沛公と西のかた関に入らんことを願ふ。懐王の諸老将皆曰く、「項羽の人と為り彊悍猾賊なり。項羽嘗て襄城を攻め、襄城に遺類無く、皆之を阬にす、諸々の過ぐる所残滅せざる無し。且つ楚数(しばしば)進み取らんとし、前の陳王・項梁皆敗る。更に長者を遣はして義に扶りて西し、秦の父兄に告諭するに如かず。秦の父兄其の主に苦しむこと久し、今誠に長者を得て往き、侵暴する毋くんば、宜しく下すべし。今項羽は彊悍なり、今遣はすべからず。独り沛公素より寛大の長者なり、遣はすべし。」と。卒に項羽を許さずして、沛公を遣はして西のかた地を略し、陳王・項梁の散卒を収めしむ。乃ち碭に道して成陽に至り、杠里の秦の軍と壁を夾み、(魏)[秦]の二軍を破る。楚の軍兵を出して王離を撃ち、大いに之を破る。沛公兵を引きて西し、彭越に昌邑に遇ひ、因りて与に倶に秦の軍を攻む、戦ひて利あらず。還りて栗に至り、剛武侯に遇ひ、其の軍を奪ふ、四千余人可り、之を并す。魏の将皇欣・魏の申徒武蒲の軍と并せて昌邑を攻む、昌邑未だ抜けず。西のかた高陽を過ぐ。酈食其監門為り、曰く、「諸将の此を過ぐる者多し、吾沛公を視るに大人長者なり。」と。乃ち見えんことを求めて沛公に説く。沛公方に牀に踞し、両女子をして足を洗はしむ。酈生拝せず、長揖して、曰く、「足下必ず無道の秦を誅せんと欲せば、宜しく踞して長者に見ゆべからず。」と。是に於て沛公起ち、衣を摂めて之に謝し、延きて上坐せしむ。食其沛公に説きて陳留を襲はしめ、秦の積粟を得たり。乃ち酈食其を以て広野君と為し、酈商を将と為し、陳留の兵に将たらしめ、与に偕に開封を攻む、開封未だ抜けず。西のかた秦の将楊熊と白馬に戦ひ、又曲遇の東に戦ひ、大いに之を破る。
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史記 留侯世家項伯嘗て人を殺し、良に従ひて匿る。後十年、陳渉等兵を起こす、良も亦た少年百余人を聚む。景駒自ら立ちて楚の仮王と為り、留に在り。良往きて之に従はんと欲し、道にして沛公に還ふ。沛公数千人を将ゐ、地を下邳の西に略す、遂に焉に属す。沛公良を拝して廄将と為す。良数々太公兵法を以て沛公に説く、沛公之を善しとし、常に其の策を用ふ。良他人の為にする者は、皆省みず。良曰く、「沛公は殆ど天授なり」と。故に遂に之に従ひ、去りて景駒に見えず。沛公の薛に之きて、項梁に見ゆるに及び、項梁楚の懐王を立つ。良乃ち項梁に説きて曰く、「君已に楚の後を立つ、而して韓の諸公子横陽君成は賢なり、立てて王と為すべし、益々党を樹てん」と。項梁良をして韓成を求めしめ、立てて以て韓王と為す。良を以て韓の申徒と為し、韓王と千余人を将ゐて西のかた韓の地を略し、数城を得るも、秦輒ち復た之を取る、往来して游兵を潁川に為す。沛公の雒陽より南のかた轘轅に出づるや、良兵を引きて沛公に従ひ、韓の十余城を下し、楊熊の軍を撃破す。沛公乃ち韓王成をして陽翟に留守せしめ、良と倶に南し、宛を攻め下し、西のかた武関に入る。沛公兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す、良説きて曰く、「秦の兵尚ほ強し、未だ軽んずべからず。臣聞く、其の将は屠者の子なりと、賈豎は動かすに利を以てし易し。願はくは沛公且く留まりて壁し、人をして先行せしめ、五万人の為に食を具へ、益々為に旗幟を諸山の上に張り、疑兵と為し、酈食其をして重宝を持して秦の将に啗はしめよ」と。秦の将果たして叛き、連和して倶に西のかた咸陽を襲はんと欲す、沛公之を聴かんと欲す。良曰く、「此れ独り其の将叛かんと欲するのみ、恐らくは士卒従はざらん。従はずんば必ず危ふし、其の解くるに因りて之を撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引きて秦軍を撃ち、大いに之を破る。遂に北のかた藍田に至り、再び戦ひ、秦の兵竟に敗る。遂に咸陽に至り、秦王子嬰沛公に降る。
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史記 高祖本紀蕭・曹等は皆文吏にして、自ら愛し、事の就らずして、後に秦其の家を種族せんことを恐れ、尽く劉季に譲る。諸父老皆曰く、「平生聞く所の劉季の諸々の珍怪、当に貴かるべし、且つ之を卜筮するに、劉季の最も吉なるに如くは莫し。」と。是に於て劉季数(しばしば)譲る。衆敢へて為す莫し、乃ち季を立てて沛公と為す。黄帝を祠り、蚩尤を沛の庭に祭りて、鼓旗に釁(ちぬ)る、幟は皆赤し。殺す所の蛇は白帝の子、殺す者は赤帝の子なるに由る、故に赤を上ぶ。是に於て少年豪吏蕭・曹・樊噲等の如き皆為に沛の子弟二三千人を収め、胡陵・方与を攻め、還りて豊を守る。秦の二世二年、陳渉の将周章の軍西して戯に至りて還る。燕・趙・斉・魏皆自ら立ちて王と為る。項氏呉に起こる。秦の泗川の監平兵を将ゐて豊を囲む、二日にして、出でて与に戦ひ、之を破る。雍歯に命じて豊を守らしめ、兵を引きて薛に之く。泗州の守壮薛に敗れ、走りて戚に至る、沛公の左司馬泗川の守壮を得て、之を殺す。沛公軍を亢父に還し、方与に至る、(周市来りて方与を攻む)未だ戦はず。陳王魏人周市をして地を略せしむ。周市人をして雍歯に謂はしめて曰く、「豊は、故の梁の徙なり。今魏の地已に定まる者数十城。歯今魏に下らば、魏歯を以て侯と為して豊を守らしめん。下らずんば、且に豊を屠らんとす。」と。雍歯雅より沛公に属するを欲せず、魏の之を招くに及び、即ち反きて魏の為に豊を守る。沛公兵を引きて豊を攻むるも、取る能はず。沛公病み、還りて沛に之く。沛公雍歯と豊の子弟の之に叛くを怨み、東陽の甯君・秦嘉景駒を立てて仮王と為し、留に在りと聞き、乃ち往きて之に従ひ、兵を請ひて以て豊を攻めんと欲す。是の時秦の将章邯陳を従(お)ひ、別将司馬夷兵を将ゐて北のかた楚の地を定め、相を屠り、碭に至る。東陽の甯君・沛公兵を引きて西し、与に蕭の西に戦ひ、利あらず。還りて兵を収めて留に聚め、兵を引きて碭を攻め、三日にして乃ち碭を取る。因りて碭の兵を収め、五六千人を得たり。
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史記 絳侯周勃世家絳侯周勃は、沛の人なり。其の先は巻の人にして、沛に徙る。勃は薄曲を織るを以て生と為し、常に人の為に簫を吹きて喪事に給し、材官の引彊たり。高祖の沛公と為りて初めて起こるや、勃は中涓を以て従ひて胡陵を攻め、方与を下す。方与反し、与に戦ひ、適を卻く。豊を攻む。秦軍を碭の東に撃つ。軍を留及び蕭に還す。復た碭を攻め、之を破る。下邑を下し、先登す。爵五大夫を賜はる。蒙・虞を攻め、之を取る。章邯の車騎を撃ち、殿す。魏の地を定む。爰戚・東緡を攻め、以て往きて栗に至り、之を取る。齧桑を攻め、先登す。秦軍を阿の下に撃ち、之を破る。追ひて濮陽に至り、甄城を下す。都関・定陶を攻め、宛朐を襲ひ取り、単父の令を得。夜に臨済を襲ひ取り、張を攻め、以て前みて巻に至り、之を破る。李由の軍を雍丘の下に撃つ。開封を攻め、先づ城下に至ること多しと為す。後に章邯項梁を破り殺し、沛公と項羽と兵を引きて東のかた碭に如く。初め沛に起こりてより還りて碭に至るまで、一歳二月なり。楚の懐王沛公を封じて安武侯と号し、碭郡の長と為す。沛公勃を拝して虎賁の令と為し、令を以て沛公に従ひて魏の地を定む。東郡の尉を城武に攻め、之を破る。王離の軍を撃ち、之を破る。長社を攻め、先登す。潁陽・緱氏を攻め、河津を絶つ。趙賁の軍を尸の北に撃つ。南のかた南陽の守齮を攻め、武関・嶢関を破る。秦軍を藍田に破り、咸陽に至り、秦を滅ぼす。項羽至り、沛公を以て漢王と為す。漢王勃に爵を賜ひて威武侯と為す。従ひて漢中に入り、拝して将軍と為る。還りて三秦を定め、秦に至り、食邑懐徳を賜はる。槐裏・好畤を攻め、最たり。趙賁・内史保を咸陽に撃ち、最たり。北のかた漆を攻む。章平・姚卬の軍を撃つ。西のかた汧を定む。還りて郿・頻陽を下す。章邯を廃丘に囲む。西丞を破る。盗巴の軍を撃ち、之を破る。上邽を攻む。東のかた嶢関を守る。転じて項籍を撃つ。曲逆を攻め、最たり。還りて敖倉を守り、項籍を追ふ。
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