呂氏春秋 / 知度④
趙襄子之時,以任登為中牟令,上計,言於襄子曰:「中牟有士曰膽、胥己,請見之。」襄子見而以為中大夫。相國曰:「意者君耳而未之目邪?為中大夫若此其見也,非晉國之故。」襄子曰:「吾舉登也,已耳而目之矣。登所舉,吾又耳而目之,是耳目人終無已也。」遂不復問,而以為中大夫。襄子何為任人,則賢者畢力。
新字:趙襄子之時,以任登為中牟令,上計,言於襄子曰:「中牟有士曰胆、胥己,請見之。」襄子見而以為中大夫。相国曰:「意者君耳而未之目邪?為中大夫若此其見也,非晋国之故。」襄子曰:「吾舉登也,已耳而目之矣。登所舉,吾又耳而目之,是耳目人終無已也。」遂不復問,而以為中大夫。襄子何為任人,則賢者畢力。
書き下し
趙襄子の時、任登を以て中牟の令と為す。上計して、襄子に言いて曰く、「中牟に士有り、膽・胥己と曰う。請う之を見よ。」襄子見て以て中大夫と為す。相國曰く、「意うに、君耳にするも未だ之を目にせざらんや。中大夫と為すこと、此くの若く其れ易きか。晉國の故に非ず。」襄子曰く、「吾、登を舉ぐるや、已に耳にして之を目にせり。登の舉ぐる所、吾又耳にして之を目にせば、是れ人を耳目にすること終に已むこと無きなり。」遂に復た問わずして、以て中大夫と為す。襄子は何をか為さん。人に任ずれば、則ち賢者力を畢くす。
現代語訳
趙襄子の時代、任登を中牟の県令とした。任登が政務報告に上って、襄子に言った。中牟に膽と胥己という士がおります。どうかお召しになってください、と。襄子は会わずに二人を中大夫に取り立てた。宰相が言った。思うに、君は耳で聞かれただけで、まだ目でご覧になっていないのではありませんか。中大夫にするのに、これほど安直でよいものか。これは晋国の慣例ではありません、と。襄子は言った。わしは任登を登用したとき、すでに耳で聞き目で確かめている。その任登が推挙する者を、わしがまた一人ひとり耳で聞き目で確かめるなら、人を耳目で確かめることに際限がなくなる、と。そうして重ねて問いただすことなく、二人を中大夫にした。襄子が何をしたというわけでもない。ただ人に任せたことで、賢者は力を尽くしたのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 樊酈滕灌列伝漢王遁れて西し、嬰従ひて還り、雍丘に軍す。王武・魏公申徒反し、従ひて撃ちて之を破る。外黄を攻め下し、西して兵を収め、滎陽に軍す。楚の騎来ること衆く、漢王乃ち軍中の騎将と為すべき者を択ぶに、皆故の秦の騎士重泉の人李必・駱甲の騎兵に習ひ、今校尉為り、騎将と為すべしと推す。漢王之を拝せんと欲するに、必・甲曰く「臣は故の秦の民なり、軍の臣を信ぜざるを恐る、臣願はくは大王の左右の騎を善くする者を得て之に傅けん」と。灌嬰少しと雖も、然れども数々力戦す、乃ち灌嬰を拝して中大夫と為し、李必・駱甲をして左右の校尉と為し、郎中の騎兵を将ゐて楚の騎を滎陽の東に撃たしめ、大いに之を破る。詔を受けて別れて楚軍の後を撃ち、其の餉道を絶ち、陽武より起こりて襄邑に至る。項羽の将項冠を魯の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒右司馬・騎将各一人を斬る。柘公王武を撃破し、燕の西に軍し、将ゐる所の卒楼煩の将五人、連尹一人を斬る。王武の別将桓嬰を白馬の下に撃ち、之を破り、将ゐる所の卒都尉一人を斬る。騎を以て河を渡りて南し、漢王を送りて雒陽に到り、北して相国韓信の軍を邯鄲に迎へしむ。還りて敖倉に至り、嬰遷りて御史大夫と為る。三年、列侯を以て杜の平郷に食邑す。御史大夫を以て詔を受け郎中の騎兵を将ゐて東して相国韓信に属し、斉軍を歴下に撃破し、将ゐる所の卒車騎将軍華毋傷及び将吏四十六人を虜にす。臨菑を降し下し、斉の守相田光を得。斉の相田横を追ひて嬴・博に至り、其の騎を破り、将ゐる所の卒騎将一人を斬り、騎将四人を生け得。嬴・博を攻め下し、斉の将軍田吸を千乗に破り、将ゐる所の卒吸を斬る。
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「仁賢を信ぜざれば、則ち國空虚なり。禮義無ければ、則ち上下亂る。政事無ければ、則ち財用足らず。」 <解説> 国の大事として、仁賢・禮義・政事の三者を挙げているが、尹氏云う、「三者、仁賢を以て本と為す、仁賢無ければ、則ち禮義・政事、之に處りて皆其の道を以てせず。」と。乃ち三者の中でも仁賢が最も根本であり、仁者・賢者がおればこそ、国の禮義や政治政策は善く行われるということである。
-
『春秋左氏伝』哀公五年 私讎は公に及ばず五年春、晉、柏人を圍む。荀寅・士吉射、齊に奔る。初め、范氏の臣王生、張柳朔を惡む。諸を昭子に言ひ、柏人に為(をさ)たらしむ。昭子曰く、「夫れ而(なんぢ)の讎に非ずや」と。對へて曰く、「私讎は公に及ばず。好むも過ちを廢せず、惡むも善を去らず。義の經なり。臣敢へて之に違はんや」と。范氏の出づるに及び、張柳朔其の子に謂ふ、「爾主に從ひ、之を勉めよ。我は將に止まりて死せんとす。王生我に授けたり。吾以て之を僭(たが)ふべからず」と。遂に柏人に死す。夏、趙鞅、衛を伐つ。范氏の故なり。遂に中牟を圍む。齊の燕姬子を生む。成らずして死す。諸子、鬻姒の子荼嬖せらる。諸大夫其の大子と為らんことを恐れ、公に言ひて曰く、「君の齒長ぜり。未だ大子有らず。之を若何せん」と。公曰く、「二三子、憂虞に間(まじ)はらば、則ち疾疢有らん。亦た姑く樂しみを謀れ。何ぞ君無きを憂へん」と。公疾あり。國惠子・高昭子をして荼を立てしめ、群公子を萊に寘く。秋、齊の景公卒す。
-
『智囊』識斷・齊桓公任登は中牟の令と為り、士を襄主に薦めて瞻胥己と曰う。襄主は以て中大夫と為す。相室諫めて曰く、「君は其れ耳にして未だ之を目にせざるか。中大夫と為すこと、此の若く其れ易きか」と。襄子曰く、「我は登を取るに、既に耳にして之を目にせり。登の取る所も、又た耳にして之を目にせば、是れ人を耳目すること終に已む無きなり」と。此れ亦た斉桓の智なり。
-
『臣軌』卷下 誠信章夫れ与に始めを為す可く、与に終わりを為す可き者は、其れ唯だ信か。信にして又信、重ねて身に襲わば、則ち以て神明に暢び、天地に通ず可し」と。昔、魯の哀公、孔子に問いて曰く、「請う、人を取るの道を問わん」と。孔子対えて曰く、
-
『智囊』知微・管仲対えて曰く、「人の情として其の父を愛さぬことはありません。その父すら忍ぶ者が、君に対して何をするでしょうか」と。公は曰く、「諾」と。管仲が死ぬと、尽くこれを逐った。食は甘からず、宮は治まらず、苛病が起こり、朝は粛まらず、居ること三年、公は曰く、「仲父は亦た過ちではなかったか」と。ここにおいて皆を復た召して反した。明年、公に病が有り、常之巫が中から出て、「公は某日を以て薨ずる」と言った。易牙・豎刁・常之巫は相与に乱を作した。宮門を塞ぎ、高牆を築き、人を通さず、公は飲を求めて得られなかった。衛の公子啓方は書社四十を以て衛に下った。公は乱を聞き、慨然として歎じ、涕を出して曰く、「嗟乎、聖人の見る所は豈に遠からずや」と。〔馮述評〕昔、呉起は妻を殺して将を求め、魯人はこれを譖った。楽羊は中山を伐ち、使者に対してその子を食い、文侯はその功を賞しながらその心を疑った。そもそも人情に近からぬことを能くする者は、その中は正に測るべからざるのである。天順の中、都指揮の馬良に寵が有った。良の妻が亡くなると、上は常に慰問した。たまたま数日出なかったので、上が問い及ぶと、左右は新たに娶ったと対えた。上は怫然として曰く、「この廝は夫婦の道すら尚お薄いのに、よく我に事えるか」と。杖して疏けた。宣徳の中、金吾衛指揮の傅広は自ら宮し、内廷に効用することを請うた。上は曰く、「この人は已に三品、更に何を為さんと欲するのか。自ら残して進むを希う、法司に下して罪を問え」と。噫、これもまた聖人の遠見である。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る