呂氏春秋 / 不廣④
齊攻廩丘。趙使孔青將死士而救之,與齊人戰,大敗之。齊將死。得車二千,得尸三萬以為二京。甯越謂孔青曰:“惜矣,不如歸尸以內攻之。越聞之,古善戰者,莎隨賁服,卻舍延尸,車甲盡於戰,府庫盡於葬。此之謂內攻之。”孔青曰:“敵齊不尸則如何?”甯越曰:“戰而不勝,其罪一。與人出而不與人入,其罪二。與之尸而弗取,其罪三。民以此三者怨上,上無以使下,下無以事上。是之謂重攻之。”甯越可謂知用文武矣。用武則以力勝,用文則以德勝。文武盡勝,何敵之不服?
新字:斉攻廩丘。趙使孔青将死士而救之,与斉人戦,大敗之。斉将死。得車二千,得尸三万以為二京。甯越謂孔青曰:“惜矣,不如帰尸以内攻之。越聞之,古善戦者,莎随賁服,却舎延尸,車甲尽於戦,府庫尽於葬。此之謂内攻之。”孔青曰:“敵斉不尸則如何?”甯越曰:“戦而不勝,其罪一。与人出而不与人入,其罪二。与之尸而弗取,其罪三。民以此三者怨上,上無以使下,下無以事上。是之謂重攻之。”甯越可謂知用文武矣。用武則以力勝,用文則以徳勝。文武尽勝,何敵之不服?
書き下し
齊、廩丘を攻む。趙、孔青をして死士を将いて之を救わしむ。齊人と戰い、大いに之を敗る。齊の將死す。車を得ること二千、尸を得ること三萬、以て二京を為る。甯越、孔青に謂いて曰く、「惜しいかな、尸を歸して以て內之を攻むるに如かず。越之を聞く、古の善く戰う者は、莎隨して服を賁き、舎を卻きて尸に延ばしむと。車甲は戰いに盡き、府庫は葬りに盡く。此を之れ內之を攻むと謂う。」孔青曰く、「敵齊、尸せずんば則ち如何。」甯越曰く、「戰いて勝たざるは、其の罪一なり。人と與に出でて人と與に入らざるは、其の罪二なり。之に尸を與えて取らざるは、其の罪三なり。民は此の三つの者を以て上を怨まば、上は以て下を使うこと無く、下は以て上に事うること無し。是を之れ重ねて之を攻むと謂う。」甯越をば文武を用うることを知れりと謂う可し。武を用うれば則ち力を以て勝ち、文を用うれば則ち德を以て勝つ。文武盡く勝たば、何の敵か之れ服せざらん。
現代語訳
斉が廩丘を攻めた。趙は孔青に決死隊を率いて救援させ、斉軍と戦って大いに破った。斉の将は戦死し、戦車二千を鹵獲し、死体三万を得て二つの塚を築いた。甯越が孔青に言った。「惜しいことだ。死体を斉に返して内から攻めるにこしたことはない。私はこう聞いている。昔の戦上手は、あえて進みも退きもせず陣を退いて死体を引き取らせた、と。戦車や武具は戦いで尽き、国庫は葬儀で尽きる。これを内から攻めるという」。孔青が「敵の斉が死体を引き取らなかったらどうする」と問うと、甯越は「戦って勝てなかったのが第一の罪、兵とともに出陣しながらともに帰らせなかったのが第二の罪、死体を渡されても引き取らないのが第三の罪。民がこの三つで上を怨めば、上は下を使えず、下は上に仕えなくなる。これを重ねて攻めるという」と答えた。甯越は文と武の使い分けを心得ていたといえる。武を用いれば力で勝ち、文を用いれば徳で勝つ。文武ともに勝てば、どんな敵も従わぬことはない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『墨子』號令人、自ら大いに版に書し、之を其の署の隔に著く。守、必ず自ら其の先後を謀り、其の署に非ずして妄りに之に入る者は、斷ず。署を離れ左右し、共に他署に入り、左右、捕らえず、私書を挾み、行きて請謁し、及び行書を為し、守事を釋てて私家の事を治め、卒民、相い家室・嬰兒を盜む者は、皆な斷じて赦す無し。人、舉げて之を藉す。符節無くして軍中を横行する者は、斷ず。客、城下に在らば、數しば其の署を易えて其の養を易うる無し。敵を譽めて少なきを以て衆しと為し、亂を以て治と為し、敵の攻の拙きを以て巧と為す者は、斷ず。客と主人と、相い與に言い及び相い藉するを得る無し。客、射るに書を以てするも、譽むるを得る無し。外、内に示すに善を以てするも、應ずるを得る無し。令に従わざる者は皆な斷ず。禁じて矢書を舉げ若しくは書を以て寇に射るを得る無し。令を犯す者は、父母・妻子、皆な斷じ、身は城上に梟す。能く之を捕らえ告ぐる者有らば、之に賞するに黄金二十斤。時に非ずして行く者は、唯だ守及び太守の節を摻りて使いする者のみ。
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『春秋左氏伝』襄公十八年 平陰の役冬十月、魯の濟に會し、溴梁の言を尋ね、同じく齊を伐つ。齊侯諸を平陰に禦ぎ、防門に塹して之を廣里に守る。夙沙衛曰く、「戰ふ能はずんば、險を守るに如くは莫し」と。聽かず。諸侯の士焉に門す。齊人多く死す。范宣子析文子に告げて曰く、「吾子を知る、敢へて情を匿さんや。魯人・莒人、皆車千乘を以って其の鄉より入らんことを請ふ。既に之を許せり。若し入らば、君必ず國を失はん。子盍ぞ之を圖らざる」と。子家以って公に告ぐ。公恐る。晏嬰之を聞きて曰く、「君固より勇無し。而して又是を聞く。久しき能はざらん」と。齊侯巫山に登りて以って晉の師を望む。晉人司馬をして山澤の險を斥はしめ、至らざる所と雖も、必ず旆して疏らに之を陳ね、車に乘る者をして左は實にし右は偽りならしめ、旆を以って先んじ、輿は柴を曳きて之に從ふ。齊侯之を見て、其の眾きを畏るるなり。乃ち脫して歸る。丙寅晦、齊の師夜に遁る。師曠晉侯に告げて曰く、「鳥烏の聲樂し。齊の師其れ遁れん」と。邢伯中行伯に告げて曰く、「班馬の聲有り。齊の師其れ遁れん」と。叔向晉侯に告げて曰く、「城上に烏有り。齊の師其れ遁れん」と。
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『春秋左氏伝』僖公二十八年 晋、曹・衛を伐つ二十八年春、晉侯將に曹を伐たんとし、道を衛に假る、衛人許さず。還りて河南より濟り、曹を侵し、衛を伐つ。正月、戊申、五鹿を取る。二月、晉の郤縠卒す。原軫中軍に將たり、胥臣下軍に佐たり、德を上ぶなり。晉侯・齊侯斂盂に盟ふ。衛侯盟はんことを請ふ、晉人許さず。衛侯楚に與せんと欲す、國人欲せず、故に其の君を出だして以て晉に說く。衛侯出でて襄牛に居る。公子買衛を戍る、楚人衛を救ひて、克たず。公晉を懼れ、子叢を殺して以て說き、楚人に謂ひて曰く、「戍を卒へざればなり」と。晉侯曹を圍み、門に攻む、多く死す。曹人諸を城上に尸す、晉侯之を患ふ。輿人の謀を聽く、曰く、「墓に舍ると稱せん」と。師焉に遷る。曹人兇懼し、其の得る所の者の為に棺して之を出だす。其の兇なるに因りて之を攻む。
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史記 張耳陳余列伝范陽の令乃ち蒯通をして武信君に見えしめて曰く、「足下必ず将に戦ひ勝ちて然る後に地を略し、攻め得て然る後に城を下さんとす。臣竊かに以て過てりと為す。誠に臣の計を聴かば、攻めずして城を降し、戦はずして地を略し、檄を伝へて千里定むべし。可ならんか」と。武信君曰く、「何の謂ぞや」と。蒯通曰く、「今范陽の令宜しく其の士卒を整頓して以て守戦すべき者なり。怯にして死を畏れ、貪にして富貴を重んず。故に天下に先んじて降らんと欲するも、君の秦の置く所の吏なるを以て、誅殺すること前の十城の如くならんことを畏る。然れども今范陽の少年亦方に其の令を殺し、自ら城を以て君を距がんとす。君何ぞ臣に侯印を齎して、范陽の令に拝せざる。范陽の令則ち城を以て君に下らん。少年も亦敢て其の令を殺さず。范陽の令をして朱輪華轂に乗り、燕・趙の郊に駆馳せしめよ。燕・趙の郊之を見て、皆曰はん、此れ范陽の令、先に下る者なりと。即ち喜ばん。燕・趙の城は戦ふ毋くして降るべきなり。此れ臣の所謂檄を伝へて千里定まる者なり」と。武信君其の計に従ひ、因りて蒯通をして范陽の令に侯印を賜はしむ。趙の地之を聞き、戦はずして城を以て下る者三十余城。邯鄲に至り、張耳・陳餘、周章の軍関に入り、戯に至りて卻くを聞く。又諸将陳王の為に地を徇へ、多く讒毀を以て罪を得て誅せらるるを聞き、陳王の其の筴を不とし以て将と為さずして校尉と為すを怨む。乃ち武臣に説きて曰く、「陳王蘄に起こり、陳に至りて王たり。必ずしも六国の後を立てず。将軍今三千人を以て趙の数十城を下し、独り河北に介居す。王たらずんば以て之を塡むる無し。且つ陳王讒を聴く。還り報ずれば、恐らくは禍より脱れざらん。又其の兄弟を立つるに如かず。不なれば、即ち趙の後を立てよ。将軍時を失ふ毋かれ。時は間に息を容れず」と。武臣乃ち之を聴き、遂に立ちて趙王と為る。陳餘を以て大将軍と為し、張耳を右丞相と為し、邵騒を左丞相と為す。
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李衛公問対・卷下守るの法は、要は敵に示すに不足を以てするに在り。攻むるの法は、要は敵に示すに有餘を以てするに在るなり。

人生を、一行の式にしてみた。
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