列子 / 説符篇
弟子孟孫陽出、以告心都子。心都子他日與孟孫陽偕入、而問曰:「昔有昆弟三人、游齊魯之間、同師而學、進仁義之道而歸。其父曰:『仁義之道若何?』伯曰:『仁義使我愛身而後名。』仲曰:『仁義使我殺身以成名。』叔曰:『仁義使我身名並全。』彼三術相反、而同出於儒。孰是孰非邪?」楊子曰:「人有濱河而居者、習於水、勇於泅、操舟鬻渡、利供百口。裹糧就學者成徒、而溺死者幾半。本學泅、不學溺、而利害如此。若以爲孰是孰非?」心都子嘿然而出。
新字:弟子孟孫陽出、以告心都子。心都子他日与孟孫陽偕入、而問曰:「昔有昆弟三人、游斉魯之間、同師而学、進仁義之道而帰。其父曰:『仁義之道若何?』伯曰:『仁義使我愛身而後名。』仲曰:『仁義使我殺身以成名。』叔曰:『仁義使我身名並全。』彼三術相反、而同出於儒。孰是孰非邪?」楊子曰:「人有浜河而居者、習於水、勇於泅、操舟鬻渡、利供百口。裹糧就学者成徒、而溺死者幾半。本学泅、不学溺、而利害如此。若以為孰是孰非?」心都子嘿然而出。
書き下し
弟子孟孫陽出でて、以て心都子に告ぐ。心都子他日孟孫陽と偕に入りて、問いて曰く、昔昆弟三人有り、齊魯の間に游び、師を同じくして學び、仁義の道を進めて歸る。其の父曰く、仁義の道は若何、と。伯曰く、仁義は我をして身を愛して名を後にせしむ、と。仲曰く、仁義は我をして身を殺して以て名を成さしむ、と。叔曰く、仁義は我をして身と名と並び全からしむ、と。彼の三術は相い反す。而も同じく儒より出づ。孰か是にして孰か非なるか、と。楊子曰く、人に河に濱して居る者有り。水に習い、泅ぐに勇にして、舟を操りて渡しを鬻ぐ。利は百口に供す。糧を裹みて學に就く者は徒を成す。而して溺死する者は幾ど半ばなり。本と泅ぐを學びて、溺るるを學ばず。而るに利害此くの如し。若は以て孰か是にして孰か非なりと爲すか、と。心都子嘿然として出づ。
現代語訳
弟子の孟孫陽が退出して、そのことを心都子に話した。心都子は後日、孟孫陽と一緒に入って尋ねた。「昔、三人の兄弟がいました。斉と魯のあいだに遊学し、同じ師について学び、仁義の道を修めて帰りました。父が『仁義の道とはどういうものか』と尋ねると、長男は『仁義は私に、身を愛して名を後回しにさせる』と言いました。次男は『仁義は私に、身を殺して名を成さしめる』と言いました。三男は『仁義は私に、身と名の両方を全うさせる』と言いました。この三つのやり方は互いに反しています。それでいて同じく儒から出ている。どれが正しくどれが誤りでしょうか」。楊子は言った。「黄河のほとりに住む人がいた。水に慣れ、泳ぎが達者で、舟を操って渡し賃を取った。その稼ぎで百人が暮らせた。食糧を包んで習いに来る者が大勢いた。そして溺れ死ぬ者がほぼ半分だった。もともと泳ぎを習いに来たのであって、溺れることを習いに来たのではない。それでいて利害はこのとおりだ。あなたはどれが正しくどれが誤りだと思うか」。心都子は黙って退出した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・雜言孔子、呂梁を観る。懸水四十仞、環流九十里、魚鱉過ぐる能わず、黿鼉敢えて居らず。一丈夫有り、方に将に之を渉らんとす。孔子人をして崖に並びて之を止めしめて曰く、「此の懸水四十仞、圜流九十里、魚鱉敢えて過ぎず、黿鼉敢えて居らず、意うに済り難からんか」と。丈夫意に錯かず、遂に渡りて出づ。孔子問う、「子巧みなるか。且つ道術有るか。能く入りて出づる所以は何ぞや」と。丈夫曰く、「始め吾入るや、先ず忠信を以てす。吾の出づるや、又従うに忠信を以てす。忠信吾が軀を波流に錯くも、吾敢えて私を用いず。吾の能く入りて復た出づる所以なり」と。孔子弟子に謂いて曰く、「水すら尚お忠信を以てす可し、義久しくして身之に親しめば、況んや人に於いてをや」と。
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『童子問』卷上問ふ、先生既に仁を以て聖門の第一字と為し、而して又忠信を以て仁を行ふの地と為すは、何ぞや。曰く、有子曰く、「孝弟なる者は、其れ仁を為すの本か」と。孔子曰く、「忠信を主とす」と。夫れ孝弟は順徳、忠信は実心なり。人若し忠信ならざれば、則ち名は孝と為すと雖も実は孝に非ず、名は忠と為すと雖も実は忠に非ず。礼儀三百・威儀三千、節文度数粲然として観るべしと雖も、皆虚文末節にして、要するに観るに足らず。剪勝の華樹を観るが如し。目を悦ばしむるに足ると雖も、本真に非ず。奚ぞ以て貴しと為すに足らん。故に曰く、「誠ならざれば物無し」と。忠信を仁を行ふの地と為す、亦宜ならずや。
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論語・衛霊公篇子張、行を問う。子曰く、「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行われん。言忠信ならず、行篤敬ならずんば、州里と雖も行われんや。立てば、則ち其の前に参するを見るなり。輿に在れば、則ち其の衡に倚るを見るなり。夫れ然る後に行われん。」子張、諸を紳に書す。
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『新書』修政語下周の成王曰く、「敢えて問う、国を治むるの道は若何」と。粥子曰く、「唯、疑う。請う、上世の政を以て君王に詔げん。政に曰く、国を治むるの道は、上は主に忠にして、中は其の士を敬い、下は其の民を愛す。故に上は其の主に忠なる者は、道義に非ざれば以て忠に入る無し。而して中は其の士を敬うは、礼節を以てするに非ざれば以て敬を諭す無し。下は民を愛するは、忠信に非ざれば以て愛を諭す無し。故に忠信民に行われ、礼節士に諭され、道義上に入るは、則ち国を治むるの道なり。天下を治むる者と雖も、此に由るのみ」と。周の成王曰く、「命を受けたり」と。
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孔子家語・儒行解儒に金玉を宝とせずして、忠信を以て宝と為し、土地を祈らずして、仁義を以て土地と為し、多積を求めずして、多文を以て富と為す有り。得難くして禄し易く、禄し易くして畜い難し。時に非ざれば見えず、亦た難得ならずや。義に非ざれば合わず、亦た難畜ならずや。労を先にして禄を後にす、亦た易禄ならずや。其の人情に近きこと此くの如き者有り。儒に之に委ぬるに財貨を以てして貪らず、之を淹すに楽好を以てして淫せず、之を劫すに衆を以てして懼れず、之を阻むに兵を以てして懾れず、利を見て其の義を虧かず、死を見て其の守りを更めず、鷙虫の攫搏も其の勇を程らず、重鼎を引くも其の力を程らず、往く者を悔いず、来る者を予めせず、過言再びせず、流言極めず、其の威を断たず、其の謀を習わず有り。其の特立すること此くの如き者有り。
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史記 蒙恬列伝蒙恬は、其の先は斉人なり。恬の大父蒙驁、斉より秦の昭王に事へ、官上卿に至る。秦の荘襄王の元年、蒙驁秦の将と為り、韓を伐ち、成皋・滎陽を取り、三川郡を作置す。二年、蒙驁趙を攻め、三十七城を取る。始皇の三年、蒙驁韓を攻め、十三城を取る。五年、蒙驁魏を攻め、二十城を取り、東郡を作置す。始皇の七年、蒙驁卒す。驁の子を武と曰ひ、武の子を恬と曰ふ。恬嘗て獄を書し文学を典る。始皇の二十三年、蒙武秦の裨将軍と為り、王翦と楚を攻め、大いに之を破り、項燕を殺す。二十四年、蒙武楚を攻め、楚王を虜にす。蒙恬の弟は毅なり。始皇の二十六年、蒙恬家世に因りて秦の将と為るを得、斉を攻め、大いに之を破り、拝して内史と為る。秦已に天下を并せ、乃ち蒙恬をして三十万の衆を将ゐて北のかた戎狄を逐ひ、河南を収めしむ。長城を筑き、地形に因り、用て険塞を制し、臨洮に起こり、遼東に至る。延袤万余里。是に於て河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る。是の時蒙恬の威匈奴を振るはす。始皇甚だ蒙氏を尊寵し、信任して之を賢とす。而して蒙毅を親近し、位上卿に至り、出づれば則ち参乗し、入れば則ち御前にあり。恬は外事に任じて毅は常に内謀を為す。名づけて忠信と為す。故に諸将相と雖も敢て之と争ふ莫し。
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