宋名臣言行録 / 前集巻七・杜衍
公多知本朝故實善決大事初邉將議欲大舉以擊夏人雖韓公亦以為可舉公爭以為不可大臣至有欲以沮軍罪公者然兵後果不得出契丹與夏人爭銀瓮族大戰黄河外而鴈門麟府皆警范文正安撫河東欲以兵從公以為契丹必不來兵不可妄出范公怒至以語侵公公不為恨後契丹卒不來
新字:公多知本朝故実善決大事初邉将議欲大舉以撃夏人雖韓公亦以為可舉公争以為不可大臣至有欲以沮軍罪公者然兵後果不得出契丹与夏人争銀瓮族大戦黄河外而鴈門麟府皆警范文正安撫河東欲以兵従公以為契丹必不来兵不可妄出范公怒至以語侵公公不為恨後契丹卒不来
書き下し
公、多く本朝の故實を知り、善く大事を決す。初め邉將、議して大いに舉げて以て夏人を擊たんと欲す。韓公と雖も亦た以て舉ぐ可しと為す。公爭いて以て不可と為す。大臣に、軍を沮むを以て公を罪せんと欲する者有るに至る。然れども兵、後に果たして出づるを得ず。契丹と夏人と、銀瓮族を爭いて黄河の外に大戰す。而して鴈門・麟府皆な警む。范文正、河東を安撫す。兵を以て從わんと欲す。公以為えらく、契丹必ず來らず。兵、妄りに出だす可からずと。范公怒りて、語を以て公を侵すに至る。公、恨みと為さず。後、契丹卒に來らず。
現代語訳
公は本朝の先例をよく知っていて、大事をうまく決した。はじめ辺境の将たちが議して、大挙して西夏を撃とうとした。韓琦でさえ、挙兵すべきだとした。公は争って不可とした。大臣の中には、軍の勢いをくじいたとして公を罪に問おうとする者まで出た。しかし兵は、後にはたして出せなかった。契丹と西夏とが銀瓮族を争って黄河の外で大いに戦った。そして雁門・麟府はみな警戒した。范仲淹が河東を安撫していた。兵を出して従おうとした。公はこう考えた。契丹は必ず来ない。兵をみだりに出してはならない、と。范仲淹は怒って、言葉で公を傷つけるまでに至った。公はそれを恨まなかった。後に、契丹はついに来なかった。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』外儲說左上第三十二右御の冶工王に言ひて曰く、「臣聞く人主に十日燕せざるの斎無しと。今王の久しく斎して以て無用の器を観ること能はざるを知る、故に三月を以て期と為す。凡そ刻削する者は、其の以て削る所必ず小なり。今臣は冶人なり、以て之が削を為すこと無し、此れ然らざるの物なり、王必ず之を察せよ。」王因りて囚へて之を問ふ、果して妄なり、乃ち之を殺す。冶人王に謂ひて曰く、「計に度量無ければ、言談の士に棘刺の説多きなり。」一に曰く、燕王微巧を好む。衛人曰く、「能く棘刺の端を以て母猴を為る。」燕王之を説び、之を養ふに五乗の奉を以てす。王曰く、「吾試みに客の棘刺の母猴を為るを観ん。」客曰く、「人主之を観んと欲せば、必ず半歳宮に入らず、酒を飲み肉を食はず。雨霽れ日出でて、之を晏陰の間に視れば、棘刺の母猴乃ち見るべきなり。」燕王因りて衛人を養ふも、其の母猴を観ること能はず。鄭に台下の冶者有り燕王に謂ひて曰く、「臣は削る者なり、諸々の微物は必ず削を以て之を削る、而して削る所は必ず削より大なり。今棘刺の端は削鋒を容れず、以て棘刺の端を治め難し。王試みに客の削を観よ、能と不能と知るべきなり。」王曰く、「善し。」衛人に謂ひて曰く、「客棘刺の母猴を為るや、何を以て之を理むる。」曰く、「削を以てす。」
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言志四録・言志録 第三十五条 物を容るるにも明暗有り物を容るるは美徳なり。然れども亦明暗有り。
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史記 晋世家二月辛丑、咎犯秦・晋の大夫と郇に盟ふ。壬寅、重耳晋の師に入る。丙午、曲沃に入る。丁未、武宮に朝し、即位して晋君と為る。是を文公と為す。群臣皆往く。懐公圉高梁に奔る。戊申、人をして懐公を殺さしむ。懐公の故の大臣呂省・郤芮本より文公に附かず。文公立ち、誅せられんことを恐れ、乃ち其の徒と謀りて公宮を焼き、文公を殺さんと欲す。文公知らず。始め嘗て文公を殺さんと欲せし宦者履鞮其の謀を知り、以て文公に告げて、前の罪を解かんと欲し、文公に見えんことを求む。文公見えず、人をして譲めしめて曰く、「蒲城の事、女予が袪を斬る。其の後我狄君に従ひて猟す。女恵公の為に来たりて我を殺さんことを求む。恵公女と期するに三日にして至れとす。而るに女一日にして至る。何ぞ速やかなるや。女其れ之を念へ」と。宦者曰く、「臣は刀鋸の余なり。敢て二心を以て君に事へ主に倍かず。故に罪を君に得たり。君已に国に反る。其れ蒲・翟無からんや。且つ管仲鉤を射て、桓公以て覇たり。今刑余の人事を以て告ぐるも君見えずんば、禍又且に及ばんとす」と。是に於て之に見ゆ。遂に呂・郤等を以て文公に告ぐ。文公呂・郤を召さんと欲す。呂・郤等は党多し。文公初めて国に入り、国人の己を売らんことを恐れ、乃ち微行を為し、秦の繆公に王城に会す。国人知る莫し。三月己丑、呂・郤等果たして反し、公宮を焚くも、文公を得ず。文公の衛徒与に戦ふ。呂・郤等兵を引きて奔らんと欲す。秦の繆公呂・郤等を誘ひ、之を河上に殺す。晋国復して文公帰るを得たり。夏、夫人を秦に迎ふ。秦の文公に妻す所の者卒に夫人と為る。秦三千人を送りて衛と為し、以て晋の乱に備ふ。文公政を修め、恵みを百姓に施す。従亡の者及び功臣を賞し、大なる者は邑を封じ、小なる者は爵を尊くす。未だ尽くは賞を行はざるに、周の襄王弟帯の難を以て出でて鄭の地に居り、来たりて急を晋に告ぐ。晋初めて定まり、兵を発せんと欲するも、他の乱の起こらんことを恐る。是を以て従亡を賞するに未だ隠者介子推に至らず。推も亦た禄を言はず、禄も亦た及ばず。
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史記 項羽本紀其の後に最(あつ)まりて、郎中騎楊喜、騎司馬呂馬童、郎中呂勝・楊武各々其の一体を得たり。五人共に其の体を会するに、皆是なり。故に其の地を分かちて五と為し、呂馬童を封じて中水侯と為し、王翳を封じて杜衍侯と為し、楊喜を封じて赤泉侯と為し、楊武を封じて呉防侯と為し、呂勝を封じて涅陽侯と為す。項王已に死し、楚の地皆漢に降る、独り魯のみ下らず。漢乃ち天下の兵を引きて之を屠らんと欲す、其の礼義を守り、主の為に節に死するが為に、乃ち項王の頭を持ちて魯に視(しめ)す、魯の父兄乃ち降る。始め、楚の懐王初めて項籍を封じて魯公と為す、其の死するに及びて、魯最後に下る、故に魯公の礼を以て項王を穀城に葬る。漢王為に哀を発し、之に泣きて去る。諸々の項氏の枝属、漢王皆誅せず。乃ち項伯を封じて射陽侯と為す。桃侯・平皋侯・玄武侯は皆項氏なり、姓劉氏を賜ふ。太史公曰く、吾之を周生に聞く、曰く「舜の目は蓋し重瞳子なり」と、又聞く項羽も亦重瞳子なりと。羽豈に其の苗裔ならんや。何ぞ興ることの暴かなるや。夫れ秦其の政を失ひ、陳渉難を首め、豪傑蠭起し、相与に并び争ふこと、勝げて数ふべからず。
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『格言聯璧』持躬類・海闊くして魚の躍るに從ふ海闊くして魚の躍るに從ひ、天空しくして鳥の飛ぶに任す、大丈夫に非ざれば此くの如き度量なる能はず。 衣を千仞の岡に振ひ、足を萬里の流れに濯ふ、大丈夫に非ざれば此の氣節有る能はず。 珠藏れて澤自ら媚しく、玉韞まれて山輝きを含む、大丈夫に非ざれば此の蘊藉有る能はず。

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