孔子家語 / 曲禮子夏問
子夏問曰:「官於大夫,既升於公,而反為之服,禮與?」孔子曰:「管仲遇盜,取二人焉上之為公臣,曰:『所以遊僻者,可人也。』公許,管仲卒,桓公使為之官於大夫者為之服,自管仲始也,有君命焉。」
新字:子夏問曰:「官於大夫,既升於公,而反為之服,礼与?」孔子曰:「管仲遇盗,取二人焉上之為公臣,曰:『所以遊僻者,可人也。』公許,管仲卒,桓公使為之官於大夫者為之服,自管仲始也,有君命焉。」
書き下し
子夏問いて曰く、「大夫に官たりて、既に公に升り、而も反りて之が服を為すは、礼か」と。孔子曰く、「管仲盗に遇い、二人を取りて焉に之を公臣と為し、曰く、『遊僻する所以の者は、人とすべきなり』と。公許す、管仲卒するに、桓公之が官たりし大夫の者をして之が服を為さしむ、管仲より始まるなり、君命有ればなり」と。
現代語訳
子夏が尋ねた。「もともと大夫のもとで仕えていた家臣が、その後君主の直属に昇格しても、元の主君であった大夫が亡くなった際に喪服を着て服喪するのは、礼にかなっているのでしょうか。」孔子は答えた。「管仲が盗賊に襲われたとき、その盗賊のうち二人を捕らえて用い、彼らを公の臣下に取り立てて言った。『素行が悪く放浪していた者であっても、用いるに値する人物なのだ』と。桓公はこれを許した。その後管仲が亡くなったとき、桓公はかつて管仲のもとで大夫に仕えていた者たちに、管仲のために喪服を着て服喪させた。これが先例の始まりであり、これは君主の特別な命令があったからこそ成り立ったことなのだ。」
解説
本来、主君が代わって公の直属となった家臣が、元の主君であった大夫のために喪服を着て服喪することは通常の礼の規定にはない特例です。孔子は、この慣行が管仲の逸話に由来することを説明しています。管仲がかつて自らを襲った盗賊の中から人材を見出して桓公の家臣に取り立てたという逸話を踏まえつつ、管仲の死後、桓公が特別な命令によって元の家臣たちに服喪を許したことが、この慣行の起源であると位置づけています。通常の礼の枠を超えた特例は、あくまで君主の明確な命令があって初めて成立するのだという、規範と特例の関係を示す逸話です。
この章句が説くこと
管仲桓公君命服喪の特例
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