言志四録 / 南洲手抄
無爲而有爲之謂誠。有爲而無爲之謂敬。
新字:無為而有為之謂誠。有為而無為之謂敬。
書き下し
為す無くして為す有る之を誠と謂ふ。為す有つて為す無し之を敬と謂ふ。
現代語訳
作為がないのに(自然に)為されている、これを「誠」という。作為して為しながら(作為の跡がない)、これを「敬」という。
解説
「誠」と「敬」を、作為の有無という角度から対にして説いた一条です。何も作為していないのに、おのずと正しく為されている——これが自然な最高の境地「誠」。一方、意識して努め励みながらも、そこにわざとらしさや力みが残らない——これが工夫の境地「敬」。三十二番の敬と誠の区別とも響き合います。努力して律する「敬」から、律する必要もない自然な「誠」へ。一見禅問答のようですが、努力が板についてやがて自然になる、修養の到達点を示しています。力みが取れて自然体になる、その熟達の姿を言い当てた一条です。
この章句が説くこと
誠と敬無為自然体熟達
関連する章句
-
説苑・君道斉の宣王、尹文に謂いて曰く、「人君の事は何如」と。尹文対えて曰く、「人君の事は、無為にして能く下を容る。夫れ事寡なければ従い易く、法省ければ因り易し、故に民は政を以て罪を獲ず。大道は衆を容れ、大徳は下を容れ、聖人は寡為にして天下理まる。書に曰く、『睿は聖を作す』と。詩人曰く、『岐に夷の行有り、子孫其れ之を保たん』と」と。宣王曰く、「善し」と。
-
論語・陽貨篇子曰く、飽食終日、心を用うる所無きは、難いかな。博弈なる者有らずや。之を為すは、猶お已むに賢れり。
-
論語・衛霊公篇孔子曰わく、無為にして治むる者は、その舜なるか。夫れ何をか為さん。己を恭しくして南面するのみ。
-
説苑・君道晋の平公、師曠に問いて曰く、「人君の道は如何」と。対えて曰く、「人君の道は、清浄無為、務めて博愛にあり、趨りて賢を任ずるにあり、広く耳目を開きて以て万方を察し、流俗に固溺せず、左右に拘繋せられず、廓然として遠く見、踔然として独立し、屡々考績を省みて、以て臣下に臨む。此れ人君の操なり」と。平公曰く、「善し」と。
-
老子・第37章道は常に無為にして而も為さざる無し。侯王若し能く之を守らば、万物は将に自ら化せんとす。化して作らんと欲すれば、吾れ将に之を鎮むるに無名の樸を以てせんとす。無名の樸は、夫れ亦た将に欲無からんとす。欲せずして以て静かなれば、天下は将に自ら定まらんとす。
-
『信心銘』第十四章智者(ちしゃ)は無為(むい)、愚人(ぐにん)は自(みづか)ら縛(しば)る。法(ほう)に異法(いほう)無(な)きに、妄(みだ)りに自(みづか)ら愛著(あいじゃく)す。心(しん)を將(も)って心(しん)を用(もち)ゐる、豈(あ)に大錯(だいしゃく)に非(あら)ずや。