顔氏家訓 / 書證
張揖云:「虙、今伏羲氏也。」孟康漢書古文注亦云:「虙、今伏。」而皇甫謐云:「伏羲或謂之宓羲。」按諸經史緯候、遂無宓羲之號。虙字從虍、宓字從宓(去掉必)、下俱爲必、末世傳寫、遂誤以虙爲宓、而帝王世紀因更立名耳。
新字:張揖云:「虙、今伏羲氏也。」孟康漢書古文注亦云:「虙、今伏。」而皇甫謐云:「伏羲或謂之宓羲。」按諸経史緯候、遂無宓羲之号。虙字従虍、宓字従宓(去掉必)、下倶為必、末世伝写、遂誤以虙為宓、而帝王世紀因更立名耳。
書き下し
張揖云う、「虙は、今の伏羲氏なり」と。孟康の漢書の古文注にも亦た云う、「虙は、今の伏なり」と。而るに皇甫謐は云う、「伏羲は或いは之を宓羲と謂う」と。諸の経史緯候を按ずるに、遂に宓羲の号無し。虙の字は虍に従い、宓の字は宀に従う。下は倶に必と為す。末世の伝写、遂に誤りて虙を以て宓と為す。而して帝王世紀因って更に名を立つるのみ。
現代語訳
張揖はいう。「虙は今の伏羲氏である」。孟康の『漢書』古文注にもいう。「虙は今の伏である」。ところが皇甫謐は「伏羲はあるいは宓羲ともいう」という。諸々の経書・史書・緯書を調べても、宓羲という称号はまったくない。「虙」の字は虍に従い、「宓」の字は宀に従う。下はどちらも「必」である。後世の書き写しで、そのまま誤って「虙」を「宓」としてしまった。そして『帝王世紀』がそれによって新しい呼び名を立てただけである。
解説
誤写から新しい固有名詞が生まれた例です。「虙」と「宓」は上の部分が違うだけで、下はどちらも「必」。書き写すうちに入れ替わり、やがて『帝王世紀』という書物が「宓羲」という別名を正式に立てました。誤字が名前になった瞬間です。しかも顔之推の検証手順が明確で、まず諸文献に「宓羲」の用例があるか探し、一つもないことを確かめてから、字形の類似を指摘する。用例がないことを先に確かめるのが要点です。新しい用語や名称に出会ったとき、その用例が過去にあるかを確かめると、誤記由来かどうかが分かります。
この章句が説くこと
虙は今の伏羲氏諸の経史緯候に宓羲の号無し末世の伝写誤字から生まれた名
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