呂氏春秋 / 求人②
堯傳天下於舜,禮之諸侯,妻以二女,臣以十子,身請北面朝之,至卑也。伊尹,庖廚之臣也;傅說,殷之胥靡也。皆上相天子,至賤也。禹東至榑木之地,日出、九津、青羌之野,攢樹之所,㨉天之山,鳥谷、青丘之鄉,黑齒之國;南至交阯、孫樸、續樠之國,丹粟、漆樹、沸水、漂漂、九陽之山,羽人、裸民之處,不死之鄉;西至三危之國,巫山之下,飲露、吸氣之民,積金之山,共肱、一臂、三面之鄉;北至人正之國,夏海之窮,衡山之上,犬戎之國,夸父之野,禺彊之所,積水、積石之山。不有懈墮,憂其黔首,顏色黎黑,竅藏不通,步不相過,以求賢人,欲盡地利,至勞也。得陶、化益、真窺、橫革、之交五人佐禹,故功績銘乎金石,著於盤盂。
新字:堯伝天下於舜,礼之諸侯,妻以二女,臣以十子,身請北面朝之,至卑也。伊尹,庖廚之臣也;傅説,殷之胥靡也。皆上相天子,至賤也。禹東至榑木之地,日出、九津、青羌之野,攢樹之所,㨉天之山,鳥谷、青丘之鄉,黒齒之国;南至交阯、孫樸、続樠之国,丹粟、漆樹、沸水、漂漂、九陽之山,羽人、裸民之処,不死之鄉;西至三危之国,巫山之下,飲露、吸気之民,積金之山,共肱、一臂、三面之鄉;北至人正之国,夏海之窮,衡山之上,犬戎之国,夸父之野,禺彊之所,積水、積石之山。不有懈堕,憂其黔首,顏色黎黒,竅蔵不通,歩不相過,以求賢人,欲尽地利,至労也。得陶、化益、真窺、横革、之交五人佐禹,故功績銘乎金石,著於盤盂。
書き下し
堯、天下を舜に傳うるや、之に諸侯に禮せしめ、妻わすに二女を以てし、臣とするに十子を以てし、身、北面してこれを朝せんことを請うは、至卑なり。伊尹は、庖廚の臣なり。傅說は、殷の胥靡なり。皆上りて天子に相たるは、至賤なり。禹は東して榑木の地、日出の津、青羌の野、攢樹の所、㨉天の山、鳥谷・青丘の鄉、黑齒の國に至り、南して交阯・孫樸・續樠の國、丹粟漆樹ありて、沸水漂漂たる、九陽の山、羽人・裸民の、不死の鄉に至り、西して三危の國、巫山の下、飲露吸氣の民、積金の山、共肱一臂三面の鄉に至り、北して人正の國、夏海の窮、衡山の上、犬戎の國、夸父の野、禺彊の所、積水積石の山に至る。懈墮有らず、其の黔首を憂い、顏色は黎黑にして、竅藏通ぜず、歩むに相過ぎず、以て賢人を求め、地の利を盡くさんと欲するは、至勞なり。陶・化益・真窺・橫革・之交、を得、五人、禹を佐く。故に功績は金石に銘せられ、盤盂に著さる。
現代語訳
堯が天下を舜に伝えたとき、舜を諸侯に礼をもって遇させ、二人の娘を妻として与え、十人の子を臣下として仕えさせ、自らは臣下の位置に立って舜に拝謁を願った。これは極めて謙虚なことである。伊尹はもと料理人の臣であり、傅説は殷の罪人であった。それがともに登用されて天子の宰相となったのは、極めて賤しい身からの抜擢である。禹は東は榑木の地・日の出る津・青羌の野・攢樹の所・㨉天の山・鳥谷や青丘の里・黒歯の国に至り、南は交阯・孫樸・続樠の国、丹砂や漆樹があって沸き立つ水が流れる九陽の山、羽人や裸民の住む不死の里に至り、西は三危の国・巫山のふもと・露を飲み気を吸う民・金を積んだ山・共肱や一臂や三面の里に至り、北は人正の国・夏海の果て・衡山の上・犬戎の国・夸父の野・禺彊のいる所・積水や積石の山に至った。怠ることなく人民を憂え、顔は日焼けして黒ずみ、体の器官も通じないほど疲れ、歩みも重くなりながら賢人を求め、土地の利を尽くそうとした。これは極めて労苦を尽くしたものである。こうして陶・化益・真窺・横革・之交の五人を得て、彼らが禹を助けた。だからその功績は金石に刻まれ、盤や盂の器に記されたのである。
解説
この章句が説くこと
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