呂氏春秋 / 舉難⑤
甯戚欲干齊桓公,窮困無以自進,於是為商旅將任車以至齊,暮宿於郭門之外。桓公郊迎客,夜開門,辟任車,爝火甚盛,從者甚眾。甯戚飯牛居車下,望桓公而悲,擊牛角疾歌。桓公聞之,撫其僕之手曰:「異哉!之歌者非常人也。」命後車載之。桓公反,至,從者以請。桓公賜之衣冠,將見之。甯戚見,說桓公以治境內。明日復見,說桓公以為天下。桓公大說,將任之。群臣爭之曰:「客,衛人也。衛之去齊不遠,君不若使人問之,而固賢者也,用之未晚也。」桓公曰:「不然。問之,患其有小惡,以人之小惡,亡人之大美,此人主之所以失天下之士也已。」凡聽必有以矣。今聽而不復問,合其所以也。且人固難全,權而用其長者。當舉也,桓公得之矣。
新字:甯戚欲干斉桓公,窮困無以自進,於是為商旅将任車以至斉,暮宿於郭門之外。桓公郊迎客,夜開門,辟任車,爝火甚盛,従者甚衆。甯戚飯牛居車下,望桓公而悲,撃牛角疾歌。桓公聞之,撫其僕之手曰:「異哉!之歌者非常人也。」命後車載之。桓公反,至,従者以請。桓公賜之衣冠,将見之。甯戚見,説桓公以治境内。明日復見,説桓公以為天下。桓公大説,将任之。群臣争之曰:「客,衛人也。衛之去斉不遠,君不若使人問之,而固賢者也,用之未晩也。」桓公曰:「不然。問之,患其有小悪,以人之小悪,亡人之大美,此人主之所以失天下之士也已。」凡聴必有以矣。今聴而不復問,合其所以也。且人固難全,権而用其長者。当舉也,桓公得之矣。
書き下し
甯戚、齊の桓公に干めんと欲するも、窮困して以て自ら進むる無し。是に於て商旅と為りて任車を将きて以て齊に至り、暮に郭門の外に宿る。桓公、郊に客を迎え、夜、門を開き、任車を辟けしめ、爝火甚だ盛にして、從者甚だ衆し。甯戚、牛を飯って車下に居り、桓公を望みて悲しみ、牛角を撃ちて疾歌す。桓公之を聞き、其の僕の手を撫して曰く、「異なるかな。之の歌う者は常人に非ざるなり。」後車に命じて之を載せしむ。桓公反り至り、從者以て請う。桓公、之に衣冠を賜い、將に之を見んとす。甯戚見え、桓公に説くに境內を治むるを以てす。明日復た見え、桓公に説くに天下を為むるを以てす。桓公大いに說び、將に之に任ぜんとす。群臣之を爭いて曰く、「客は、衛人なり。衛の齊を去ること遠からず。君人をして之を問わしむるに若かず。而して固より賢者ならば、之を用うるも未だ晩からず。」桓公曰く、「然らず。之を問うは、其の小惡有るを患うればなり。人の小惡を以て、人の大美を亡る。此れ人主の天下の士を失う所以なるのみ。」凡そ聽には必ず以てする有り。今聽きて復た問わざるは、其の以てする所に合すればなり。且つ人は固より全かり難ければ、權りて其の長なる者を用う。舉に當りてや、桓公之を得たり。
現代語訳
甯戚は斉の桓公に仕えたいと願ったが、困窮していて自分を売り込む手立てがなかった。そこで隊商となって荷車を率いて斉に至り、日暮れに城郭の門の外で宿をとった。桓公が郊外で客を迎え、夜に門を開き、荷車を脇へ避けさせ、かがり火は盛んに燃え、従者は大勢いた。甯戚は牛に飼葉をやって車の下におり、桓公を見て悲しみ、牛の角を叩いて調子の速い歌をうたった。桓公はこれを聞き、御者の手を撫でて言った。「不思議だ。あの歌う者はただ者ではない」。そして後続の車に命じて彼を乗せさせた。桓公が帰り着くと従者が指示を仰いだ。桓公は彼に衣冠を賜り、会おうとした。甯戚はまみえて、まず国内を治める策を桓公に説き、翌日ふたたびまみえて、天下を治める策を説いた。桓公は大いに喜び、任用しようとした。群臣が反対して言った。「あの客は衛の人です。衛は斉から遠くありません。人をやって身元を問わせるのがよいでしょう。それで本当に賢者なら、用いても遅くはありません」。桓公は言った。「そうではない。身元を問うのは、小さな欠点があるのを気にするからだ。人の小さな欠点のために大きな長所を捨てる。これこそ君主が天下の士を失う原因なのだ」。およそ人を用いるには必ず理由がある。いま聴き入れて改めて問わなかったのは、その用いる理由に合致していたからだ。そもそも人は完全ではありえないから、はかりにかけてその長所を取って用いる。人を挙げ用いる点で、桓公はその要をつかんでいたのである。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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