顔氏家訓 / 書證
漢明帝紀:「爲四姓小侯立學。」按:桓帝加元服、又賜四姓及梁、鄧小侯帛、是知皆外戚也。明帝時、外戚有樊氏、郭氏、陰氏、馬氏爲四姓。謂之小侯者、或以年小獲封、故須立學耳。或以侍祠猥朝、侯非列侯、故曰小侯、禮云:「庶方小侯。」則其義也。
新字:漢明帝紀:「為四姓小侯立学。」按:桓帝加元服、又賜四姓及梁、鄧小侯帛、是知皆外戚也。明帝時、外戚有樊氏、郭氏、陰氏、馬氏為四姓。謂之小侯者、或以年小獲封、故須立学耳。或以侍祠猥朝、侯非列侯、故曰小侯、礼云:「庶方小侯。」則其義也。
書き下し
漢の明帝紀に、「四姓の小侯の為に学を立つ」と。按ずるに、桓帝元服を加うるに、又た四姓及び梁・鄧の小侯に帛を賜う。是に知る、皆な外戚なり。明帝の時、外戚に樊氏・郭氏・陰氏・馬氏有り、四姓と為す。之を小侯と謂うは、或いは年小くして封を獲るを以て、故に学を立つるを須つのみ。或いは侍祠猥朝を以て、侯は列侯に非ず。故に小侯と曰う。礼に云う、「庶方の小侯」と。則ち其の義なり。
現代語訳
漢の明帝紀に「四姓の小侯のために学校を立てた」とある。調べてみると、桓帝が元服したとき、また四姓および梁氏・鄧氏の小侯に絹を賜っている。ここから、みな外戚だと分かる。明帝の時代、外戚には樊氏・郭氏・陰氏・馬氏があり、これを四姓とする。これを小侯というのは、あるいは年が幼くして封を得たので、学校を立てる必要があったからである。あるいは祭祀に侍り雑多に朝見するだけで、侯といっても列侯ではない。だから小侯というのである。『礼記』にいう「諸方の小侯」。それがこの意味である。
解説
「小侯」という語の意味を、二つの可能性に分けて示した一段です。年が幼くて封を受けたから小侯なのか、格が低い侯だから小侯なのか。顔之推はどちらとも決めず、両方を並べます。そのうえで『礼記』の用例を挙げ、後者の解釈にも根拠があることを示す。決着させないまま、可能性と根拠を整理して残しています。前後の段では誤りを断定していた人が、ここでは断定していない。断定できる場合とできない場合を、自分で見分けているということです。何を断定し、何を留保するか。その線を引けるかどうかが、判断の質を作ります。
この章句が説くこと
四姓の小侯の為に学を立つ樊郭陰馬庶方の小侯断定と留保
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