顔氏家訓 / 歸心
梁孝元在江州時、有人為望蔡縣令、經劉敬躬亂、縣廨被焚、寄寺而住。民將牛酒作禮、縣令以牛繫旛柱、屏除形像、鋪設床坐、於堂上接賓。未殺之頃、牛解、徑來至階而拜、縣令大笑、命左右宰之。飲噉醉飽、便臥檐下。稍醒而覺體癢、爬搔隱疹、因爾成癩、十許年死。
新字:梁孝元在江州時、有人為望蔡県令、経劉敬躬乱、県廨被焚、寄寺而住。民将牛酒作礼、県令以牛繋旛柱、屏除形像、鋪設床坐、於堂上接賓。未殺之頃、牛解、径来至階而拝、県令大笑、命左右宰之。飲噉酔飽、便臥檐下。稍醒而覚体癢、爬搔隠疹、因爾成癩、十許年死。
書き下し
梁の孝元江州に在りし時、人有りて望蔡の県令と為る。劉敬躬の乱を経て、県廨焚かるるを被り、寺に寄りて住す。民将に牛酒もて礼を作さんとす。県令牛を以て旛柱に繋ぎ、形像を屏除し、床坐を鋪設し、堂上において賓を接す。未だ殺さざるの頃、牛解けて、径ちに来たりて階に至りて拝す。県令大いに笑い、左右に命じて之を宰らしむ。飲噉して酔い飽き、便ち檐下に臥す。稍く醒めて体の痒きを覚え、爬掻して隠疹し、因って爾に癩と成り、十許年にして死せり。
現代語訳
梁の元帝が江州にいたとき、望蔡の県令になった人がいた。劉敬躬の乱を経て、県の役所が焼かれたので、寺に寄宿していた。民が牛と酒で礼をしようとした。県令は牛を寺の幡柱につなぎ、仏像を取り払い、床几を並べて、堂の上で客をもてなした。まだ屠らないうちに、牛が縄をほどいて、まっすぐやって来て階の前で拝んだ。県令は大笑いして、家来に命じて屠らせた。飲み食いして酔い飽き、そのまま軒下に横になった。しばらくして目が覚めると体が痒く、掻きむしると発疹ができ、そのまま重い皮膚病となって、十年ほどで死んだ。
解説
前の段と同じ構造の説話ですが、県令の振る舞いが加わっています。寺に寄宿しながら仏像を取り払って宴席を設け、拝んだ牛を見て大笑いして屠らせた。殺したことより、笑ったことが強調されています。目の前で起きた異常な出来事を、笑いに変えて処理した。因果応報譚としての枠を外しても、この点は読めます。理解できない出来事や、都合の悪い訴えを、笑いに変えてやり過ごす態度です。笑ってしまえば考えずに済むので、その場は楽になる。しかし処理したのではなく、見なかったことにしただけです。
この章句が説くこと
形像を屏除す牛解けて階に至りて拝す県令大いに笑う笑いによる処理度量
関連する章句
-
説苑・尊賢斉の桓公庭燎を設け、士の造り見えんと欲する者の為にす。期年にして士至らず。是に於いて東野の鄙人に九九の術を以て見えんとする者有り。桓公曰く、「九九何ぞ以て見ゆるに足らんや」と。鄙人対えて曰く、「臣九九を以て見ゆるに足れりと為すに非ず、臣聞く、主君庭燎を設けて以て士を待つも、期年にして士至らずと。夫れ士の至らざる所以の者は、君は天下の賢君なり、四方の士、皆自ら論ずるに君に及ばずと以て、故に至らざるなり。夫れ九九は薄能のみなるに、而れども君猶お之を礼す、況んや九九より賢れる者をや。夫れ太山は壌石を辞せず、江海は小流を逆えず、大を成す所以なり」と。詩に云う、「先民言える有り、芻蕘に詢う」と。博く謀ることを言うなり。桓公善しと曰いて、乃ち因りて之を礼す。期月にして四方の士、相携えて並び至る。詩に曰く、「堂より基に徂き、羊より牛に徂く」と。内を以て外に及び、小を以て大に及ぶことを言うなり。
-
説苑・復恩楚の荘王群臣に酒を賜ふ、日暮れて酒酣にして、燈燭滅す、乃ち人の美人の衣を引く者有り、美人其の冠纓を援絶して、王に告げて曰く、「今者燭滅え、妾の衣を引く者有り、妾其の冠纓を援け得て之を持てり、趣かに火を来して上げしめ、纓を絶ちし者を視られよ」と。王曰く、「人に酒を賜ひ、酔ひて礼を失はしめしに、奈何ぞ婦人の節を顕して士を辱めんと欲せんや」と。乃ち左右に命じて曰く、「今日寡人と飲みて、冠纓を絶たざる者は懽ならず」と。群臣百有余人皆其の冠纓を絶ち去りて火を上ぐ、卒に尽く懽びて罷む。居ること三年、晋楚と戦ふ、一臣常に前に在り、五合五たび奮ひ、首として敵を卻く、卒に之に勝つを得たり、荘王怪しみて問ひて曰く、「寡人徳薄く、又未だ嘗て子を異にせざるに、子何の故に死に出でて疑はざること是の如きか」と。対へて曰く、「臣当に死すべかりき、往者酔ひて礼を失ひしとき、王隠忍して誅を加へざりき、臣終に敢へて蔭蔽の徳を以て王に顕報せざらんや、常に肝脳を地に塗り、頸血を用ひて敵に湔がんことを願ふこと久し、臣乃ち夜纓を絶ちし者なり」と。遂に晋軍を敗り、楚以て強きを得たり、此れ陰徳有る者は必ず陽報有るなり。
-
尚書・秦誓如し一介の臣有りて、斷斷猗として他の技無く、其の心休休焉として、其れ容るる有るが如くんば。
-
人物志・材能寛弘の人は、宜しく郡国を為すべし。下をして其の功を施すを得しめて、其の事を総成す。急小の人は、宜しく百里を理むべし。事を己に辦ぜしむ。
-
牧民忠告・事長夫れ天下を能くする者は、其の志必ず高く、其の至る所必ず遠し。昔某郡に新守有り、褊驁(へんごう)にして大いに其の下を礼せず、常に掾属(えんぞく)をして庭下に羅拝(らはい)せしむ。一賢掾有り、初め疾を以て告に在り、疾愈(い)えて当に庭参すべし。是の日偶(たま)たま大雨あり、守は傘を張り茅(かや)を庭下に布(し)かしめ、掾をして拝せしむ、掾恬然(てんぜん)として容(かたち)を動かさず、興伏(こうふく)惟(こ)れ謹めり。識者其の他日必ず宰相と為るを知るなり、後果たして然り。
-
説苑・尊賢晋の文侯、地を行きて隧に登るに、大夫皆之を扶く。隨会扶けず。文侯曰く、「会よ、夫れ人臣為りて其の君を忍ぶ者は、其の罪奚如ん」と。対えて曰く、「其の罪重死なり」と。文侯曰く、「何をか重死と謂う」と。対えて曰く、「身死し、妻子戮せらる」と。隨会曰く、「君奚ぞ独り人臣為りて其の君を忍ぶ者を問いて、人君為りて其の臣を忍ぶ者を問わざるや」と。文侯曰く、「人君為りて其の臣を忍ぶ者は、其の罪何如ん」と。隨会対えて曰く、「人君為りて其の臣を忍ぶ者は、智士謀を為さず、弁士言を為さず、仁士行を為さず、勇士死を為さず」と。文侯綏を援きて車を下り、大夫に辞して曰く、「寡人に腰髀の病有り、願わくは諸大夫罪する勿かれ」と。