呂氏春秋 / 明理①
五帝三王之於樂盡之矣。亂國之主,未嘗知樂者,是常主也。夫有天賞得為主,而未嘗得主之實,此之謂大悲。是正坐於夕室也,其所謂正,乃不正矣。
新字:五帝三王之於楽尽之矣。乱国之主,未嘗知楽者,是常主也。夫有天賞得為主,而未嘗得主之実,此之謂大悲。是正坐於夕室也,其所謂正,乃不正矣。
書き下し
五帝三王の樂に於けるや之を盡くせり。亂國の主、未だ嘗て樂を知らざる者は、是れ常主なり。夫れ天賞有りて主と為るを得、而も未だ嘗て主の實を得ざるは、此を之れ大悲と謂う。是れ正に夕室に坐するなり。其の所謂正とは、乃ち不正なり。
現代語訳
五帝三王は音楽において、これを究め尽くした。乱れた国の君主で、いまだかつて音楽を知らない者は、凡庸な君主である。そもそも天からの恵み(王位)を得て君主となりながら、いまだかつて君主たる実質を得ていないのは、これを大いなる悲しみという。これはちょうど傾いた部屋に座っているようなものだ。その者がいわゆる「正しい」とすることは、実は正しくないのである。
解説
この段は、理想の帝王である五帝三王は音楽を究めたのに対し、乱国の凡庸な君主は音楽を解さないと対比します。王位という天の恵みを得ながら君主としての実質を欠くことを「大悲」と呼び、傾いた部屋に座って自らを正しいと思い込む姿にたとえます。ここでの音楽は、政治の善し悪しや君主の徳を映すものとして位置づけられています。地位にふさわしい中身を伴わないまま、自分の判断を正しいと錯覚することの危うさへの警告です。肩書きや権限だけでなく実質を備えているかを問うこの視点は、役割と実力の一致を求める現代のリーダー論にも通じます。
この章句が説くこと
五帝三王常主大悲夕室君主論楽
関連する章句
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『慎思録』巻之一君子の心に、本然の楽しみ有り。是れ人心の固有する所、天性の自然なり。花月の目を悦ばしめ、声楽の耳を娯しましむるの類の如きは、是れ特に外物を藉りて、吾が楽しみを助くるなり。専ら是を以て楽しみの主と為すに非ず。苟も心本然の楽しみを失ひて、徒らに身外の尤物を以て悦楽と為さんと欲するは、是れ外物を以て楽しみの主と為す。惑ひて楽しまざる所以なり。君子の楽しみと為す所に非ざるなり。
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『慎思録』巻之四楽の一字は、聖人の屢言ふ所、必ず以有るなり。是れ学者の当に知るべき所なり。以て高遠にして及ぶべからずと為して廃棄すべからざるなり。蓋し礼楽は脩身の本なり。礼は敬のみ。楽は楽なり。二者は、斯須も身を去るべからざる所以なり。楽は是れ心の生理なり。常人と雖も亦た之有り。君子は楽しみて道に順ひ、道を以て欲を制す。則ち楽しみて乱れず。小人は楽しみて欲に順ひ、欲を以て道を忘る。則ち乱れて楽しまず。蓋し小人の楽しむ所は、真の楽に非ざるなり。故に君子にして而る後に楽を得。楽に非ざれば則ち以て君子と為すべからず。仁者は憂へず。楽と憂との消長を以て、君子小人分かる。
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『慎思録』巻之一孔顔の楽しみと、吟風弄月の楽しみとの同じからずと為す者は、何ぞや。蓋し孔顔の楽しみは外に在らざるを以てなり。然れども吟風弄月の楽しみは外に在りと雖も、亦以て吾が楽しみを資くべし。内外相干渉せざる者に非ざるなり。
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『慎思録』巻之五楽記に曰く、君子は其の道を得るを楽しみ、小人は其の欲を得るを楽しむ。道を以て欲を制すれば、則ち楽しみて乱れず。欲を以て道を忘るれば、則ち惑ひて楽しまず、と。此れ君子と小人と、其の楽しむ所の相同じからざるを知る。猶ほ氷炭薫蕕の相容れざるがごとし。然り而して君子にして後に真の楽しみ有り。小人の楽しむ所は、楽しみ未だ既きざるに、憂ひ則ち之に随ふ。以て楽しみと為すべからず。
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