牧民忠告 / 聽訟
人不能獨處,必資眾以遂其生。眾以相資,此訟之所從起也。故聖人作《易》,以「訟」繼「師」,其示警固深矣。夫善聽訟者,必先察其情;欲察其情,必先審其辭。其情直,其辭直;其情曲,其辭曲。政使強直其辭,而其情則必自相矛盾,從而詰之,誠偽見矣。《周禮》以五聲聽獄訟,求民情固不外乎此。然聖人謂:「聽訟,吾猶人也。必也使無訟乎!」蓋聽訟者折衷於已然,苟公其心,人皆可能也;無訟者救過於未然,非以德化民,何由及此?嗚呼!凡牧民者,其勿恃能聽訟為德也。
新字:人不能独処,必資眾以遂其生。眾以相資,此訟之所従起也。故聖人作《易》,以「訟」継「師」,其示警固深矣。夫善聴訟者,必先察其情;欲察其情,必先審其辞。其情直,其辞直;其情曲,其辞曲。政使強直其辞,而其情則必自相矛盾,従而詰之,誠偽見矣。《周礼》以五声聴獄訟,求民情固不外乎此。然聖人謂:「聴訟,吾猶人也。必也使無訟乎!」蓋聴訟者折衷於已然,苟公其心,人皆可能也;無訟者救過於未然,非以徳化民,何由及此?嗚呼!凡牧民者,其勿恃能聴訟為徳也。
書き下し
人は独り處(お)ること能(あた)わず、必ず衆に資(と)りて以て其の生を遂ぐ。衆以て相資(あいと)る、此れ訟(しょう)の従(よ)りて起こる所なり。故に聖人《易》を作るに、「訟」を以て「師」に継(つ)ぐ、其の警(いまし)めを示すこと固(まこと)に深し。夫れ善く訟を聴く者は、必ず先ず其の情を察す。其の情を察せんと欲すれば、必ず先ず其の辞を審(つまび)らかにす。其の情直(なお)ければ、其の辞直(なお)し。其の情曲(まが)れば、其の辞曲る。政(たと)い其の辞を強(し)いて直(なお)くせしむとも、其の情は則ち必ず自ら相(あい)矛盾し、従(したが)ってこれを詰(なじ)れば、誠偽(せいぎ)見(あら)わる。《周礼》五声を以て獄訟(ごくしょう)を聴くも、民情を求むること固(もと)より此れに外(ほか)ならず。然れども聖人謂う、「訟を聴くは、吾(われ)猶(な)お人のごときなり。必ずや訟無からしめんか」と。蓋し訟を聴く者は已然(いぜん)に折衷す、苟(いやしく)も其の心を公にすれば、人皆能くす可きなり。訟無き者は過ちを未然に救う、徳を以て民を化するに非ざれば、何に由りて此れに及ばんや。嗚呼(ああ)、凡そ民を牧する者、其れ能く訟を聴くを恃(たの)みて徳と為す勿(な)かれ。
現代語訳
人は一人だけでは生きられず、必ず人々に頼り合って生活を成り立たせる。互いに頼り合うからこそ、そこに争い(訴訟)が生まれる。だから聖人が『易経』を作るにあたり、「訟」の卦を「師」の卦の後に続けた。その戒めは実に深い。訴訟を上手に裁く者は、必ずまずその実情を見極める。実情を見極めようとすれば、必ずまずその言葉を詳しく調べる。実情が真っ直ぐならば言葉も真っ直ぐであり、実情が曲がっていれば言葉も曲がっている。たとえ無理に言葉だけを真っ直ぐに取り繕っても、実情は必ず自ら矛盾するので、それを追及すれば真偽が明らかになる。『周礼』が五声によって訴訟を聴くとしたのも、民の実情を求めることに他ならない。しかし聖人は言った、「訴訟を裁くことなら、私も人並みにできる。大切なのは訴訟そのものを無くすことだ」と。訴訟を裁くのは既に起きたことの是非を折衷することであり、心を公平にすれば誰にでもできる。訴訟を無くすのは過ちを未然に防ぐことであり、徳によって民を教化するのでなければ、どうしてそこに至れようか。ああ、およそ民を治める者よ、訴訟を裁く能力があることを頼みにして、それを徳だと思い込んではならない。