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帝範 / 閲武第十一

夫兵甲者,國之凶器也。土地雖廣,好戰則人彫;邦國雖安,亟戰則人殆。彫非保全之術,殆非擬冦之方。不可以全除,不可以常用,故農隙講武,習威儀也。是以勾踐軾蛙,卒成霸業;徐偃棄武,遂以䘮邦。何則?越習其威,徐忘其備。孔子曰:不教人戰,是謂棄之。故知弧矢之威,以利天下。此用兵之機也。

新字:夫兵甲者,国之凶器也。土地雖広,好戦則人彫;邦国雖安,亟戦則人殆。彫非保全之術,殆非擬寇之方。不可以全除,不可以常用,故農隙講武,習威儀也。是以勾践軾蛙,卒成覇業;徐偃棄武,遂以喪邦。何則?越習其威,徐忘其備。孔子曰:不教人戦,是謂棄之。故知弧矢之威,以利天下。此用兵之機也。

書き下し

夫(そ)れ兵甲(へいこう)は、國(くに)の凶器(きょうき)なり。土地(とち)廣(ひろ)しと雖(いへど)も、戰(たたか)ひを好(この)めば則(すなは)ち人(ひと)彫(おとろ)へ、邦國(ほうこく)安(やす)しと雖(いへど)も、亟(しばしば)戰(たたか)へば則(すなは)ち人(ひと)殆(あや)ふし。彫(おとろ)ふるは保全(ほぜん)の術(じゅつ)に非(あら)ず、殆(あや)ふきは寇(あだ)に擬(そな)ふるの方(ほう)に非(あら)ず。以(も)って全(まった)く除(のぞ)く可(べ)からず、以(も)って常(つね)に用(もち)ゐる可(べ)からず。故(ゆゑ)に農隙(のうげき)に武(ぶ)を講(こう)じ、威儀(いぎ)を習(なら)ふなり。是(ここ)を以(も)って勾踐(こうせん)は蛙(かへる)に軾(しょく)して、卒(つひ)に霸業(はぎょう)を成(な)し、徐偃(じょえん)は武(ぶ)を棄(す)てて、遂(つひ)に以(も)って邦(くに)を䘮(うしな)ふ。何(なん)となれば則(すなは)ち、越(えつ)は其(そ)の威(い)を習(なら)ひ、徐(じょ)は其(そ)の備(そな)へを忘(わす)る。孔子(こうし)曰(いは)く、人(ひと)を教(をし)へずして戰(たたか)はしむ、是(こ)れを之(これ)棄(す)つと謂(い)ふと。故(ゆゑ)に知(し)る、弧矢(こし)の威(い)、以(も)って天下(てんか)を利(り)すと。此(こ)れ用兵(ようへい)の機(き)なり。

現代語訳

そもそも武器や甲冑は、国にとって不吉な道具である。土地が広くても、戦いを好めば民は衰え、国が安泰でも、しばしば戦えば民は危うくなる。衰えは国を保つ術ではなく、危うさは敵に備える方法ではない。だからといって、まったく取り除くこともできず、常に用いることもできない。だから農閑期に武を講じ、威儀を習うのである。だからこそ越王勾践は怒りの気概を示した蛙にすら車上で会釈して士気を養い、ついに覇業を成した。徐の偃王は武を棄てて、ついに国を失った。なぜか。越はその威を習い、徐はその備えを忘れたからだ。孔子は言った、人を教えずに戦わせる、これを棄てるという、と。だから分かる。弓矢の威は、天下を利するためのものだと。これが兵を用いることの要である。

解説

閲武篇の立場は明快である。武力は凶器だから減らすべきだが、ゼロにもできない。「以って全く除く可からず、以って常に用ゐる可からず」——この二重否定が結論であり、答えは平時の訓練に置かれる。「農隙に武を講じ」——農閑期に演習する。生産を止めずに備えを保つ折り合い方である。挙げられる二例が両極をなす。勾践は蛙にすら会釈して士気を養い覇者となった。徐の偃王は仁を行って武を棄て、国を失った。徐偃王は暴君ではなく善政の人だったとされる。それでも滅んだ、というところにこの章の重みがある。そして最後に置かれた孔子の言葉が急所を突く。「人を教へずして戰はしむ、是れを之棄つと謂ふ」——訓練しないまま人を戦場に出すのは、その人を捨てることだ。備えを怠ることの責任は、上の側にあると名指しされている。

この章句が説くこと

兵は凶器農隙講武徐偃棄武不教人戦

この一句を、あなたの毎日に。

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