荘子 / 譲王
舜以天下讓其友北人無擇,北人無擇曰:「異哉!后之為人也,居於甽畝之中,而遊堯之門。不若是而已,又欲以其辱行漫我。吾羞見之。」因自投清泠之淵。
新字:舜以天下譲其友北人無択,北人無択曰:「異哉!后之為人也,居於甽畝之中,而遊堯之門。不若是而已,又欲以其辱行漫我。吾羞見之。」因自投清泠之淵。
書き下し
舜天下を以て其の友北人無択(ほくじんむたく)に譲る。北人無択曰く、「異なるかな。后(きみ)の人と為りや、甽畝(けんぽ)の中に居りて、堯の門に遊ぶ。是の若くにして已(や)まざるのみならず、又た其の辱行(じょくこう)を以て我を漫(けが)さんと欲す。吾は之を見るを羞(は)ず」と。因りて自ら清泠(せいれい)の淵に投ず。
現代語訳
舜が天下を、友人の北人無択に譲ろうとした。北人無択は言った。「不思議なことだ。あなたという人は、田畑の畝の中に暮らしていたのに、堯の門に出入りするようになった。それだけでも十分なのに、さらにその汚らわしい行いで、私まで汚そうというのか。私はあなたに会うことすら恥ずかしい」。そして自ら清泠の淵に身を投げた。
解説
天下を譲られて、身を投げてしまう。この激しさが際立つ一段です。北人無択にとって、舜が権力の座に就いたこと自体が「汚らわしい行い」でした。しかもその汚れを、自分にまで及ぼそうとしている。会うことすら恥ずかしい、と。この潔癖さは、常軌を逸しているようにも見えます。しかし、それほどまでに権力を穢れと見る感覚が、確かに存在したのです。譲る側の善意が、受ける側には侮辱になる。この断絶の深さが描かれています。
この章句が説くこと
北人無択権力は穢れ善意が侮辱になる断絶の深さ禅譲事業承継
関連する章句
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史記 五帝本紀此の二十二人咸厥の功を成す。皋陶大理と為りて、平らかにして、民各其の実を得るに伏す。伯夷礼を主りて、上下咸譲る。垂工師を主りて、百工功を致す。益虞を主りて、山沢辟く。棄稷を主りて、百穀時に茂る。契司徒を主りて、百姓親和す。龍賓客を主りて、遠人至る。十二牧行ひて九州敢へて辟違する莫し。唯だ禹の功を大なりと為す。九山を披き、九沢を通じ、九河を決し、九州を定め、各其の職を以て来貢し、厥の宜しきを失はず。方五千里、荒服に至る。南は交阯・北発を撫し、西は戎・析枝・渠廋・氐・羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷、四海の内咸帝舜の功を戴く。是に於て禹乃ち九招の楽を興し、異物を致し、鳳皇来翔す。天下の明徳は皆虞帝より始まる。舜年二十にして孝を以て聞こえ、年三十にして堯之を挙げ、年五十にして天子の事を摂行し、年五十八にして堯崩じ、年六十一にして堯に代はりて帝位を践む。帝位を践むこと三十九年、南に巡狩し、蒼梧の野に崩ず。江南の九疑に葬る、是を零陵と為す。舜の帝位を践むや、天子の旗を載せ、往きて父瞽叟に朝し、夔夔として唯れ謹み、子の道の如くす。弟象を封じて諸侯と為す。舜の子商均も亦不肖なり。舜乃ち豫め禹を天に薦む。十七年にして崩ず。三年の喪畢はり、禹も亦乃ち舜の子に譲ること、舜の堯の子に譲るが如し。諸侯之に帰し、然る後に禹天子の位を践む。堯の子丹朱、舜の子商均、皆疆土有りて、以て先祀を奉ず。其の服を服し、礼楽之の如くす。客を以て天子に見え、天子臣とせず、敢へて専らにせざるを示すなり。黄帝より舜・禹に至るまで、皆姓を同じくして其の国号を異にし、以て明徳を章らかにす。故に黄帝を有熊と為し、帝顓頊を高陽と為し、帝嚳を高辛と為し、帝堯を陶唐と為し、帝舜を有虞と為す。帝禹は夏后と為りて氏を別にし、姓は姒氏なり。
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史記 伯夷列伝夫れ学ぶ者には載籍(書籍)極めて博きも、猶ほ信を六芸に考ふべし。詩・書は缺くると雖も、然れども虞・夏の文は知る可きなり。尭の将に位を遜らんとするや、虞舜に譲り、舜・禹の間は、岳牧咸な薦めて、乃ち之を位に試み、職を典ること数十年、功用既に興り、然る後に政を授く。天下は重器たる、王者の大統たる、天下を伝ふるの斯くの如く之れ難きを示せるなり。而るに説く者は曰く、尭、天下を許由に譲るも、許由は受けず、之を恥ぢて逃げ隠る。夏の時に及びて、卞随・務光なる者有り。此れ何を以てか称す。太史公曰く、余、箕山に登りしに、其の上に蓋し許由の冢有り、と云ふ。孔子、古の仁聖賢人を序列して、呉の太伯・伯夷の倫の如きは詳らかにす。余以へらく、聞く所の由・光の義は至高なるに、其の文辞の少しくも概見せざるは、何ぞや。
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『神皇正統記』巻三 器にあらざれば仁徳さしも聖徳ましまししに、此皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし。堯の子丹朱不肖なりしかば、舜にさづけ、舜の子商均又不肖にして夏禹に譲られしが如し。
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