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荘子 / 寓言

曾子再仕而心再化,曰:「吾及親仕,三釜而心樂;後仕,三千鍾而不洎,吾心悲。」弟子問於仲尼曰:「若參者,可謂無所縣其罪乎?」曰:「既已縣矣。夫無所縣者,可以有哀乎?彼視三釜、三千鍾,如觀雀蚊虻相過乎前也。」

新字:曽子再仕而心再化,曰:「吾及親仕,三釜而心楽;後仕,三千鍾而不洎,吾心悲。」弟子問於仲尼曰:「若参者,可謂無所県其罪乎?」曰:「既已県矣。夫無所県者,可以有哀乎?彼視三釜、三千鍾,如観雀蚊虻相過乎前也。」

書き下し

曾子再び仕えて心再び化す。曰く、「吾は親に及びて仕う。三釜(さんぷ)にして心楽しむ。後に仕う。三千鍾(しょう)にして洎(およ)ばず。吾が心悲し」と。弟子仲尼に問いて曰く、「参(しん)の若き者は、其の罪を県(か)くる所無しと謂うべきか」と。曰く、「既已(すで)に県けたり。夫れ県くる所無き者は、以て哀しむこと有るべけんや。彼は三釜・三千鍾を視ること、雀・蚊虻の相過ぐるを前に観るが如きなり」と。

現代語訳

曾子は二度仕官して、二度心が変わった。彼は言った。「初めは、親が生きている間に仕えた。俸禄は三釜(わずか)だったが、心は楽しかった。後に仕えた時は、三千鍾(莫大)だったが、親には届かなかった。私の心は悲しい」。弟子が孔子に尋ねた。「曾参のような者は、俸禄に心を縛られていない、と言えるでしょうか」。孔子は言った。「すでに縛られている。もし本当に縛られていないなら、そこに哀しみがあろうか。あの人は、三釜も三千鍾も、雀や蚊が目の前を通り過ぎるのを見るように眺めるべきなのだ」。

解説

曾子は、金額の多寡で心が動いたのではありません。親に届いたかどうかで心が動いた。それでも孔子は「すでに縛られている」と言います。この判定の厳しさが際立ちます。もし本当に俸禄に縛られていないなら、三釜であれ三千鍾であれ、雀が飛び過ぎるようなものです。悲しみが生じたということは、そこに意味を見ていたということ。動機が孝行であっても、金額に反応したことに変わりはない、と。厳しくも、筋の通った指摘です。

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