荘子 / 則陽
冉相氏得其環中以隨成,與物無終無始,無幾無時日。與物化者,一不化者也,闔嘗舍之!夫師天而不得師天,與物皆殉,其以為事也若之何?夫聖人未始有天,未始有人,未始有始,未始有物,與世偕行而不替,所行之備而不洫,其合之也若之何?
新字:冉相氏得其環中以随成,与物無終無始,無幾無時日。与物化者,一不化者也,闔嘗舎之!夫師天而不得師天,与物皆殉,其以為事也若之何?夫聖人未始有天,未始有人,未始有始,未始有物,与世偕行而不替,所行之備而不洫,其合之也若之何?
書き下し
冉相氏(ぜんしょうし)は其の環中を得て以て随成す。物と与に終無く始無く、幾(き)無く時日無し。物と化する者は、一に化せざる者なり。闔(なん)ぞ嘗みに之を舎(す)てざる。夫れ天を師として天を師とするを得ず、物と皆な殉(したが)う。其の以て事と為すや之を若何せん。夫れ聖人は未だ始めより天有らず、未だ始めより人有らず、未だ始めより始め有らず、未だ始めより物有らず。世と偕(とも)に行きて替(すた)れず、行う所の備わりて洫(あふ)れず。其の之に合するや之を若何せん。
現代語訳
冉相氏は、輪の中心を得て、物事の成り行きに従っていった。物とともにあって、終わりも始まりもなく、区切りも時日もない。物とともに変化する者とは、内に変わらないものを持つ者だ。どうして、それを試しに手放してみないのか。天を師としようとしても、天を師とすることはできず、物とともにすべてが流されていく。それを仕事にしたところで、どうなるというのか。聖人には、初めから天もなく、人もなく、始まりもなく、物もない。世とともに歩んで廃れることなく、行うことは備わっていながら、あふれ出さない。それと一つになるとは、どういうことなのか。
解説
「物とともに変化する者とは、内に変わらないものを持つ者だ」。この一句が核心の一段です。変化に対応できるのは、変わらない芯を持っている人です。芯がなければ、変化に流されるだけ。輪の中心にいるから、輪がどう回っても対応できる。そして「行うことは備わっていながら、あふれ出さない」。十分な力を持ちながら、それを出し切らない。余力を残しているから、次の変化にも応じられるのです。
この章句が説くこと
得其環中以随成変わらないから変われる余力を残す輪の中心
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