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荘子 / 徐無鬼

南伯子綦隱几而坐,仰天而噓。顏成子入見曰:「夫子,物之尤也。形固可使若槁骸,心固可使若死灰乎?」曰:「吾嘗居山穴之中矣。當是時也,田禾一覩我,而齊國之眾三賀之。我必先之,彼故知之;我必賣之,彼故鬻之。若我而不有之,彼惡得而知之?若我而不賣之,彼惡得而鬻之?嗟乎!我悲人之自喪者,吾又悲夫悲人者,吾又悲夫悲人之悲者,其後而日遠矣。」

新字:南伯子綦隠几而坐,仰天而噓。顏成子入見曰:「夫子,物之尤也。形固可使若槁骸,心固可使若死灰乎?」曰:「吾嘗居山穴之中矣。当是時也,田禾一覩我,而斉国之眾三賀之。我必先之,彼故知之;我必売之,彼故鬻之。若我而不有之,彼悪得而知之?若我而不売之,彼悪得而鬻之?嗟乎!我悲人之自喪者,吾又悲夫悲人者,吾又悲夫悲人之悲者,其後而日遠矣。」

書き下し

南伯子綦(なんぱくしき)几に隠りて坐し、天を仰ぎて嘘(きょ)す。顔成子入り見て曰く、「夫子は、物の尤(ゆう)なる者なり。形は固より槁骸(こうがい)の若くならしむべく、心は固より死灰の若くならしむべきか」と。曰く、「吾嘗て山穴の中に居れり。是の時に当たるや、田禾(でんか)一たび我を覩(み)て、斉国の衆三たび之を賀す。我必ず之に先んじ、彼故に之を知る。我必ず之を売り、彼故に之を鬻(ひさ)ぐ。若し我にして之を有せずんば、彼悪くんぞ得て之を知らん。若し我にして之を売らずんば、彼悪くんぞ得て之を鬻がん。嗟乎(ああ)、我は人の自ら喪う者を悲しむ。吾又た夫の人を悲しむ者を悲しむ。吾又た夫の人を悲しむの悲しみを悲しむ。其の後にして日に遠ざかれり」と。

現代語訳

南伯子綦が肘掛けに寄りかかって座り、天を仰いで息を吐いていた。顔成子が入ってきて言った。「先生は、物のうちで最も優れた方です。体を枯れた骨のようにし、心を冷えた灰のようにすることが、本当にできるのですか」。子綦は言った。「私はかつて山の洞穴に住んでいた。その時、田禾がひとたび私を見たというだけで、斉の国じゅうが三度も彼を祝賀した。私が先に何かを持っていたから、彼はそれを知った。私がそれを売り込んだから、彼はそれを商った。もし私がそれを持っていなければ、彼にどうして知りようがあろうか。もし私が売り込まなければ、彼にどうして商いようがあろうか。ああ、私は自分を見失った人を悲しんだ。そしてその人を悲しんでいる自分を悲しんだ。さらに、人を悲しむその悲しみを悲しんだ。そうしているうちに、日ごとに遠ざかっていったのだ」と。

解説

「私は自分を見失った人を悲しんだ。そしてその人を悲しんでいる自分を悲しんだ。さらに、その悲しみを悲しんだ」。この三重の入れ子が、この一段の核心です。悲しむこと自体が、また悲しみの対象になる。感情を反省し、その反省をまた反省する。この連鎖に入ると、どこまでも遠ざかっていきます。ただし子綦は、これを失敗として語っているのではありません。この果てしない後退を経て、ようやく遠くまで来た、と言っているのです。自分の感情を見つめる目を、さらに見つめる。その先に、静けさがあります。

この一句を、あなたの毎日に。

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