荘子 / 庚桑楚
唯蟲能蟲,唯蟲能天。全人惡天,惡人之天,而況吾天乎人乎!
新字:唯虫能虫,唯虫能天。全人悪天,悪人之天,而況吾天乎人乎!
書き下し
唯だ虫のみ能く虫たり、唯だ虫のみ能く天たり。全人は天を悪(にく)む。人の天を悪む。而るを況んや吾が天か人かをや。
現代語訳
ただ虫だけが虫であることができ、ただ虫だけが天のままでいられる。全き人は、天を意識することを嫌う。人が天を意識することを嫌う。まして、自分が天なのか人なのか、などと考えることはなおさらだ。
解説
「ただ虫だけが虫であることができる」。この一句が味わい深い一段です。虫は、虫であろうと努力していません。ただ虫です。だから天のままなのです。ところが人は、自然であろうと意識します。その意識こそが、不自然の始まりです。「自然体で行こう」と思った瞬間に、それは自然体ではありません。そして「自分が天なのか人なのか」などと考えるのは、さらに遠い。考えないでいられること。それが最も難しいのです。
この章句が説くこと
唯虫能虫意識が不自然を生む考えないこと虫のように
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