荘子 / 庚桑楚
羿工乎中微而拙於使人無己譽,聖人工乎天而拙乎人。夫工乎天而俍乎人者,唯全人能之。
新字:羿工乎中微而拙於使人無己誉,聖人工乎天而拙乎人。夫工乎天而俍乎人者,唯全人能之。
書き下し
羿(げい)は微を中(あ)つるに工(たくみ)にして、人をして己を誉むる無からしむるに拙(つたな)し。聖人は天に工にして人に拙なり。夫れ天に工にして人に俍(よ)き者は、唯だ全人のみ之を能くす。
現代語訳
名射手の羿は、微細なものを射抜くのは巧みだったが、人に自分を褒めさせないようにするのは下手だった。聖人は天のことには巧みだが、人のことには不器用だ。天のことに巧みで、しかも人のこともうまくやれる者。それができるのは、全き人だけである。
解説
名人・羿は、的を射抜くのは天才的でしたが、褒められないようにすることは下手でした。この対比が面白い一段です。技を極めれば、必ず評判が立つ。そして評判が立てば、それが災いを招きます。技を磨くことと、目立たないでいることは、両立が難しいのです。聖人も同じで、天のことは分かるが、人づきあいは不器用。この二つを両立できるのが「全人」だ、と。天のことに通じ、なおかつ人の世でもうまくやる。これが最も難しいのです。
この章句が説くこと
羿工乎中微褒められないことの難しさ天と人の両立全人聖人
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