荘子 / 庚桑楚
動以不得已之謂德,動無非我之謂治,名相反而實相順也。
新字:動以不得已之謂徳,動無非我之謂治,名相反而実相順也。
書き下し
已むを得ざるを以て動く、之を徳と謂う。動きて我に非ざる無き、之を治と謂う。名は相反して実は相順うなり。
現代語訳
やむを得ずに動くこと、これを徳という。動いて、そのすべてが自分でないところがないこと、これを治という。この二つは名前は正反対だが、実質は互いに沿っている。
解説
たった一行に、深い逆説が込められた一段です。やむを得ずに動くのが徳。つまり、動きたくて動くのではない。押されて、仕方なく動く。ところが同時に、その動きのすべてが自分そのものである。受け身のようでいて、最も自分らしい。この矛盾が「名は相反して実は相順う」です。無理に動かそうとすると、それは自分ではなくなります。やむを得ず動いた時、最も自分らしい動きが出る。力を抜いた時にこそ、その人らしさが現れるのです。
この章句が説くこと
動以不得已之謂徳受け身と自分らしさ力を抜く名相反実相順
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