荘子 / 庚桑楚
知者,接也;知者,謨也;知者之所不知,猶睨也。
書き下し
知なる者は、接なり。知なる者は、謨(ぼ)なり。知者の知らざる所は、猶お睨(げい)のごとし。
現代語訳
知とは、外界と接することである。知とは、思い巡らすことである。知恵ある者が知らないところは、横目で見るようなものだ。
解説
たった一行の、鋭い一段です。知恵ある者にも、知らないところがある。それは「横目で見る」ようなものだ、と。真正面から見えていないのです。人は正面を見ている時、視野の周辺はぼんやりとしか見えていません。知恵も同じで、集中して見ている領域の外は、横目でぼんやり捉えているだけです。専門を深く知っている人ほど、その周辺は見えていません。自分の視野の周縁がどこにあるか。それを自覚しているかどうかで、判断の質は変わります。
この章句が説くこと
知者之所不知猶睨也視野の周縁専門の外は見えない謙虚自己認識
関連する章句
-
『驢鞍橋』卷上亦良有て曰く、此分に於ては正三は心安し、人に尊ばるゝと云ふ事髄に透つていや也。天然と人に負くる性にて、何たる賤しき者よりも下に成りて居る位有り、少しも能く成りたると思はず、つんど本の九太にて居る也。考へて見れば人に增したる事もあり、語抔の僉議に臨んでは誰が云ふを聞てももどかはしゝ、古人の言句さへさして有難くも思はぬ事多し。然れども平生唯おそい物に成つて居る也。是程不思議なる事なし、よう尋ぬれば是れも此糞袋がわるうて居ると、亦何とも成らぬとが本に成つた也。時に人問、古人の語にも錯り有りや。師曰く、祖師と云ふても仏にてはなし、錯りなくては。其は流石御仏也、何と聞いても仏語には、いなと思はるゝ事一言でもなしと也。
-
葉隠・聞書第二少し眼(め)見え候者は、我が長(た)けを知り、非を知りたりと思ふゆゑ、尚々(なおなお)自慢になるものなり。実(じつ)に我が長け、我が非を知る事成り難(がた)きものの由。海音和尚(かいおんおしょう)御話(おはなし)なり。
-
史記 管晏列伝晏子斉の相たり。出づ。其の御の妻、門間よりして其の夫を闚ふ。其の夫、相の御を為して、大蓋を擁し、駟馬に策ち、意気揚揚として甚だ自ら得たるなり。既にして帰る。其の妻去らんことを請ふ。夫其の故を問ふ。妻曰く、「晏子の長けは六尺に満たずして、身は斉国に相たり、名は諸侯に顕はる。今妾其の出づるを覩るに、志念深く、常に自ら下る有る者なり。今子は長け八尺、乃ち人の僕御為り、然るに子の意は自ら以て足れりと為す。妾是の以に去らんことを求むるなり」と。其の後夫自ら抑損す。晏子怪しみて之を問ふ。御実を以て対ふ。晏子薦めて大夫と為す。
-
『驢鞍橋』卷上一日或る俗来て曰く、承り及ふ故に是れ迄伺候仕る、一句示し給へ。師曰く、一人虚を伝ふれば、万人実と伝ふとて何者かおどけ者有りて、正三こそ名誉者なれ抔といへば、末々に聞き伝へ、扨は空をも翅り、光をも放つか抔と思ひ、正三見物に来り、変も無き老人なるを見て、皆興を醒さるゝ也。誠に我何の変もなき土禅門也。只死度くも無き間、何とぞして殺さるゝ事有りとも、何とも思はす、頸を指出して自由に死ぬ程に成りたさに修する也。されとも死は置いて餓鬼畜生を出でぬ也。是れを出度く思ふ心は、何とも思はず居る者には增さるへき歟。別に人に增りたる事無し。其方も聞かんと思はゝ一向のしろうとに成りめさるへし。彼者、秘し給ふと思ひ弥示し給へと云ふ。師曰く、我仏法の能き事を知らず、只我悪敷事を能く知りたる也。我友に成り、出入めされば、何時も我処に有る餓鬼畜生を懺悔して聞かせ申すべし。実に是の外によき事を知らず、ひげして云ふかと思ひめされんずな。無間に沈むほうぞ知らぬ也。
-
論語・公冶長篇子、子貢に謂いて曰く、「女と回と孰れか愈れる。」対えて曰く、「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る、賜や一を聞きて以て二を知る。」子曰く、「如かざるなり。吾と女と、如かざるなり。」
-
老子・第71章知りて知らずとするは上、知らずして知るとするは病なり。夫れ唯だ病を病とす、是を以て病あらず。聖人の病あらざるは、其の病を病とするを以てなり。是を以て病あらず。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る