荘子 / 庚桑楚
有生,黬也,披然曰移是。嘗言移是,非所言也。雖然,不可知者也。臘者之有膍胲,可散而不可散也;觀室者周於寢廟,又適其偃焉,為是舉移是。
新字:有生,黬也,披然曰移是。嘗言移是,非所言也。雖然,不可知者也。臘者之有膍胲,可散而不可散也;観室者周於寝廟,又適其偃焉,為是舉移是。
書き下し
生有るは、黬(あん)なり。披然(ひぜん)として移是(いぜ)と曰う。嘗みに移是を言うも、言う所に非ざるなり。然りと雖も、知るべからざる者なり。臘(ろう)する者の膍胲(ひかい)有るは、散ずべくして散ずべからざるなり。室を観る者は寝廟(しんびょう)を周(めぐ)り、又た其の偃(えん)に適(ゆ)く。是が為に移是を挙ぐ。
現代語訳
生があるということは、鍋底の煤のようなものだ。それが散り広がって、『是を移す』と言われる。ためしに『是を移す』ことを語ってみても、それは語れることではない。とはいえ、知りようのないことでもある。年末の祭りで供える牛の胃袋と足は、分けられるようでいて、分けられない。屋敷を見て回る者は、寝所や廟をひと巡りし、さらには厠にまで行く。だから『是を移す』ということを持ち出すのだ。
解説
難解な一段ですが、「屋敷を見て回る者は、寝所や廟をひと巡りし、さらには厠にまで行く」という比喩が要点です。屋敷を全部見るには、立派な部屋だけでなく、厠まで見なければならない。全体を知るとは、きれいなところだけを見ることではないのです。「知北遊」の「道は糞尿にあり」と、まったく同じ発想です。目を背けたい場所を含めて初めて、その全体が分かる。都合の良いところだけを見ていては、何も分かりません。
この章句が説くこと
移是厠まで見る全体を知るとは目を背けない
関連する章句
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荘子・庚桑楚請う嘗みに移是を言わん。是れ生を以て本と為し、知を以て師と為し、因りて以て是非に乗ず。果たして名実有り、因りて以て己を質と為す。人をして己を以て節と為さしめ、因りて以て死を節に償う。是の若き者は、用を以て知と為し、不用を以て愚と為し、徹を以て名と為し、窮を以て辱と為す。移是は、今の人なり。是れ蜩(せみ)と学鳩と同を同じくするなり。
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荘子・庚桑楚道は通ず。其の分かるるや、其の成るや毀(やぶ)るるなり。分かるるを悪(にく)む所以の者は、其の分かるるや以て備うればなり。備うるを悪む所以の者は、其の以て備うる有ればなり。故に出でて反らざれば、其の鬼を見る。出でて得れば、是を死を得と謂う。滅して実有るは、鬼の一なり。有形なる者を以て無形なる者に象(かたど)りて定まる。
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