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荘子 / 庚桑楚

古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣盡矣,弗可以加矣。其次以為有物矣,將以生為喪也,以死為反也,是以分已。其次曰始無有,既而有生,生俄而死;以無有為首,以生為體,以死為尻。孰知有無死生之一守者,吾與之為友。是三者雖異,公族也,昭、景也,著戴也,甲氏也,著封也。非一也。

新字:古之人,其知有所至矣。悪乎至?有以為未始有物者,至矣尽矣,弗可以加矣。其次以為有物矣,将以生為喪也,以死為反也,是以分已。其次曰始無有,既而有生,生俄而死;以無有為首,以生為体,以死為尻。孰知有無死生之一守者,吾与之為友。是三者雖異,公族也,昭、景也,著戴也,甲氏也,著封也。非一也。

書き下し

古の人、其の知至る所有り。悪(いず)くにか至る。以て未だ始めより物有らずと為す者、至れり尽くせり、以て加うべからず。其の次は以て物有りと為し、将に生を以て喪と為し、死を以て反ると為さんとす。是を以て分かるるのみ。其の次は曰く、始めは有る無し。既にして生有り、生は俄(にわ)かにして死す。無有を以て首と為し、生を以て体と為し、死を以て尻と為す。孰か有無死生の一守なるを知らん。吾は之と友たらん。是の三者は異なると雖も、公族なり。昭・景は、戴(たい)を著(あら)わすなり。甲氏は、封を著わすなり。一に非ざるなり。

現代語訳

昔の人の知恵には、行き着いたところがあった。どこまで行き着いたのか。そもそも物など初めからなかったとする者。これが行き着くところまで行った究極であり、これ以上のものはない。その次の者は、物はあるとし、生を失うことと考え、死を帰ることと考えた。そこですでに分裂が生じている。その次の者は言う。初めは無があった。やがて生が生まれ、生はたちまち死ぬ。無を頭とし、生を胴とし、死を尻とする。誰が、有と無、死と生が一つのものだと知っているだろうか。私はその人と友になろう。この三つの考えは異なっているが、同じ一族のようなものだ。楚の昭氏や景氏は官職の名から出た氏族であり、甲氏は領地の名から出た氏族である。同じではないのだ。

解説

知恵の三つの段階を示した一段です。物などなかったとする者が最上、生を失うことと見る者が次、無から生まれ死ぬと見る者がその次。そして「有と無、死と生が一つだと知る人がいれば、私はその人と友になろう」。友になりたい、という言い方が温かい。教えを説くのでも、上から評価するのでもなく、ただ友になりたい。同じところを見ている人と、並んで立ちたい。学びの先にあるのは、支配でも指導でもなく、こういう友情なのかもしれません。

この一句を、あなたの毎日に。

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