荘子 / 庚桑楚
南榮趎請入就舍,召其所好,去其所惡,十日自愁,復見老子。老子曰:「汝自洒濯,熟哉鬱鬱乎!然而其中津津乎猶有惡也。夫外韄者不可繁而捉,將內揵;內韄者不可繆而捉,將外揵。外、內韄者,道德不能持,而況放道而行者乎!」
新字:南栄趎請入就舎,召其所好,去其所悪,十日自愁,復見老子。老子曰:「汝自洒濯,熟哉鬱鬱乎!然而其中津津乎猶有悪也。夫外韄者不可繁而捉,将内揵;内韄者不可繆而捉,将外揵。外、内韄者,道徳不能持,而況放道而行者乎!」
書き下し
南栄趎入りて舎(しゃ)に就かんことを請う。其の好む所を召し、其の悪む所を去る。十日自ら愁え、復た老子に見ゆ。老子曰く、「汝自ら洒濯(さいたく)す。熟(つらつ)ら哉(かな)、鬱鬱乎(うつうつこ)たり。然り而して其の中は津津乎(しんしんこ)として猶お悪有り。夫れ外に韄(つな)がるる者は、繁(しげ)くして捉うべからず。将に内に揵(と)ざさんとす。内に韄がるる者は、繆(まと)いて捉うべからず。将に外に揵ざさんとす。外・内に韄がるる者は、道徳も持する能わず。而るを況んや道に放(なら)いて行う者をや」と。
現代語訳
南栄趎は宿に入って修行させてほしいと願い出た。好むものを呼び寄せ、嫌うものを遠ざけた。十日間、自ら思い悩んで、また老子に会いに来た。老子は言った。「お前は自分を洗い清めたな。よくよく見れば、鬱々としている。それでいて、内側からは何かがじわじわと滲み出て、まだ悪いものが残っている。そもそも外側に縛られている者は、あまりに多くて捉えきれない。だから内側を閉ざそうとする。内側に縛られている者は、絡まりついて捉えきれない。だから外側を閉ざそうとする。外も内も縛られている者は、道と徳ですら支えきれない。まして、道に倣って歩もうとする者ならなおさらだ」と。
解説
十日間、必死に自分を清めた弟子に、老子が容赦のない診断を下す一段です。「よくよく見れば、鬱々としている」。清めようと努力すればするほど、鬱々としてくる。そして内側からは、押さえ込んだものがじわじわ滲み出す。外に縛られている人は内を閉ざし、内に縛られている人は外を閉ざす。どちらにしても、閉ざすという対処です。閉ざせば閉ざすほど、内側の圧力は高まります。清めようとする努力そのものが、彼を苦しめているのです。
この章句が説くこと
外韄内韄清めようとする苦しみ閉ざすほど高まる圧力
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