荘子 / 庚桑楚
庚桑子聞之,南面而不釋然。弟子異之。庚桑子曰:「弟子何異於予?夫春氣發而百草生,正得秋而萬寶成。夫春與秋,豈無得而然哉?天道已行矣。吾聞至人尸居環堵之室,而百姓猖狂不知所如往。今以畏壘之細民而竊竊欲俎豆予于賢人之閒,我其杓之人邪?吾是以不釋於老聃之言。」
新字:庚桑子聞之,南面而不釈然。弟子異之。庚桑子曰:「弟子何異於予?夫春気発而百草生,正得秋而万宝成。夫春与秋,豈無得而然哉?天道已行矣。吾聞至人尸居環堵之室,而百姓猖狂不知所如往。今以畏塁之細民而窃窃欲俎豆予于賢人之閒,我其杓之人邪?吾是以不釈於老聃之言。」
書き下し
庚桑子之を聞き、南面して釈然(しゃくぜん)たらず。弟子之を異とす。庚桑子曰く、「弟子何ぞ予を異とするか。夫れ春気発して百草生じ、正に秋を得て万宝成る。夫れ春と秋と、豈に得る無くして然らんや。天道已に行わるるなり。吾聞く、至人は環堵(かんと)の室に尸居(しきょ)して、百姓は猖狂(しょうきょう)として如往(じょおう)する所を知らずと。今、畏塁の細民を以て竊竊(せつせつ)として予を賢人の間に俎豆(そとう)せんと欲す。我は其れ杓(ひょう)の人か。吾是を以て老聃の言に釈けざるなり」と。
現代語訳
庚桑子はこれを聞いて、南に向かって座りながら、心が晴れなかった。弟子たちは不思議に思った。庚桑子は言った。「お前たちは、なぜ私を不思議に思うのか。春の気が発すれば百草が生え、秋になれば万物が実る。春と秋に、何か特別な力があってそうなるのだろうか。ただ天の道が行われているだけだ。私はこう聞いている。至人は狭い部屋に屍のように静かに座り、民は思うままに動き回って、どこへ行くとも知らない、と。ところが今、畏塁の民たちは、こそこそと私を賢人として祭壇に祀ろうとしている。私は目立つ人間になってしまったのか。だから老聃の教えに照らして、心が晴れないのだ」と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
荘子・庚桑楚老聃の役に、庚桑楚(こうそうそ)なる者有り。偏(ひと)えに老聃の道を得て、以て北のかた畏塁(いるい)の山に居る。其の臣の画然(かくぜん)として知なる者は之を去り、其の妾の挈然(けつぜん)として仁なる者は之を遠ざく。擁腫(ようしょう)なる之と居り、鞅掌(おうしょう)なる之を使と為す。居ること三年、畏塁大いに壤(みの)る。畏塁の民相与に言いて曰く、「庚桑子の始めて来たるや、吾洒然(せんぜん)として之を異とせり。今吾日に之を計れば足らざるも、歳に之を計れば余り有り。庶幾(ちか)くは其れ聖人か。子胡(なん)ぞ相与に尸(し)として之を祝し、社として之を稷(しょく)とせざるや」と。
-
荘子・庚桑楚庚桑子曰く、「小子来たれ。夫れ車を函(い)るるの獣も、介(ひと)りにして山を離るれば、則ち罔罟(もうこ)の患いを免れず。舟を呑むの魚も、碭(とう)して水を失えば、則ち蟻も能く之を苦しむ。故に鳥獣は高きを厭わず、魚鱉(ぎょべつ)は深きを厭わず。夫れ其の形生を全うするの人は、其の身を蔵するや、深眇(しんびょう)を厭わざるのみ。且つ夫れ二子なる者は、又た何ぞ以て称揚するに足らんや。是れ其の辯に於けるや、将に妄りに垣牆(えんしょう)を鑿(うが)ちて蓬蒿(ほうこう)を殖(う)えんとするなり。髪を簡(えら)びて櫛(くしけず)り、米を数えて炊ぐがごとし。竊竊乎(せつせつこ)として又た何ぞ以て世を済(すく)うに足らんや。賢を挙ぐれば則ち民相軋(あいきし)り、知に任ずれば則ち民相盗む。之の数物なる者は、以て民を厚くするに足らず。民の利に於けるや甚だ勤(つと)む。子に父を殺す有り、臣に君を殺す有り、正昼に盗を為し、日中に杯(へい)を穴(うが)つ。吾女に語らん。大乱の本は、必ず堯・舜の間に生じ、其の末は千世の後に存す。千世の後、其れ必ず人と人と相食む者有らん」と。
-
荘子・庚桑楚唯だ虫のみ能く虫たり、唯だ虫のみ能く天たり。全人は天を悪(にく)む。人の天を悪む。而るを況んや吾が天か人かをや。
-
荘子・庚桑楚南栄趎入りて舎(しゃ)に就かんことを請う。其の好む所を召し、其の悪む所を去る。十日自ら愁え、復た老子に見ゆ。老子曰く、「汝自ら洒濯(さいたく)す。熟(つらつ)ら哉(かな)、鬱鬱乎(うつうつこ)たり。然り而して其の中は津津乎(しんしんこ)として猶お悪有り。夫れ外に韄(つな)がるる者は、繁(しげ)くして捉うべからず。将に内に揵(と)ざさんとす。内に韄がるる者は、繆(まと)いて捉うべからず。将に外に揵ざさんとす。外・内に韄がるる者は、道徳も持する能わず。而るを況んや道に放(なら)いて行う者をや」と。
-
荘子・庚桑楚南栄趎(なんえいちゅう)蹴然(しゅくぜん)として正坐して曰く、「趎の年の若き者は已に長ぜり。将に悪(いず)くにか業を託して以て此の言に及ばんか」と。庚桑子曰く、「汝の形を全うし、汝の生を抱き、汝の思慮をして営営たらしむる無かれ。此の若くすること三年ならば、則ち以て此の言に及ぶべし」と。南栄趎曰く、「目の形に与(お)けるや、吾は其の異なるを知らず。而も盲者は自ら見る能わず。耳の形に与けるや、吾は其の異なるを知らず。而も聾者は自ら聞く能わず。心の形に与けるや、吾は其の異なるを知らず。而も狂者は自ら得る能わず。形と形とは亦た辟(たと)えらるるも、物或いは之を間(へだ)つるか。相求めんと欲して相得る能わざるか。今趎に謂いて曰く、『汝の形を全うし、汝の生を抱き、汝の思慮をして営営たらしむる勿かれ』と。趎は勉めて道を聞くも耳に達するのみ」と。庚桑子曰く、「辞は尽きたり。曰く、『奔蜂(ほんぽう)は藿蠋(かくしょく)を化する能わず。越鶏(えっけい)は鵠卵(こくらん)を伏する能わず。魯鶏は固より能くす』と。鶏と鶏と、其の徳は同じからざるに非ず。能有り能わざる有るは、其の才に固より巨小有ればなり。今吾が才は小にして、以て子を化するに足らず。子は胡(なん)ぞ南のかた老子に見えざる」と。
-
荘子・庚桑楚介者(かいしゃ)は画(かく)を拸(す)つ。非誉を外にすればなり。胥靡(しょび)は高きに登りて懼れず。死生を遺(わす)るればなり。夫れ復謵(ふくしゅう)して餽(おく)らずして人を忘る。人を忘るれば、因りて以て天人と為す。故に之を敬するも喜ばず、之を侮るも怒らざる者は、唯だ天和に同じくする者のみ然りと為す。怒を出だすも怒らざれば、則ち怒は不怒より出づ。為を出だすも為す無ければ、則ち為は無為より出づ。静ならんと欲すれば則ち気を平らかにし、神ならんと欲すれば則ち心に順う。為す有るなり。当たらんと欲すれば則ち已むを得ざるに縁(よ)る。已むを得ざるの類は、聖人の道なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る