荘子 / 知北遊
大馬之捶鉤者,年八十矣,而不失豪芒。大馬曰:「子巧與?有道與?」曰:「臣有守也。臣之年二十而好捶鉤,於物無視也,非鉤無察也。是用之者,假不用者也以長得其用,而況乎無不用者乎!物孰不資焉?」
新字:大馬之捶鉤者,年八十矣,而不失豪芒。大馬曰:「子巧与?有道与?」曰:「臣有守也。臣之年二十而好捶鉤,於物無視也,非鉤無察也。是用之者,仮不用者也以長得其用,而況乎無不用者乎!物孰不資焉?」
書き下し
大馬(たいば)の捶鉤(すいこう)する者、年八十なり。而も豪芒(ごうぼう)を失わず。大馬曰く、「子は巧なるか、道有るか」と。曰く、「臣に守る有り。臣の年二十にして鉤を捶(う)つを好む。物に於いて視る無し。鉤に非ざれば察する無し。是れ之を用うる者は、不用の者を假(か)りて以て長く其の用を得るなり。而るを況んや用いざる無き者をや。物孰か焉に資(と)らざらんや」と。
現代語訳
大司馬の帯留めの金具を鍛える職人は、八十歳になっても、髪一筋ほどの狂いもなかった。大司馬は尋ねた。「あなたは器用なのか。それとも何か道があるのか」。職人は言った。「私には守っているものがあります。私は二十歳の時から金具を打つのが好きでした。他のものには目もくれません。金具でなければ、注意を向けません。つまり、この技を使うということは、使わないもの(他のすべて)を借りて、長くその技を保っているということなのです。まして、何一つ使わないものがない者であれば、なおさらでしょう。あらゆる物が、そこから力を得るのではありませんか」と。
解説
六十年間、金具だけを見続けた職人の話です。他のものには目もくれない。この「見ないこと」が、技を支えています。彼は、使う技のために、使わない領域を犠牲にしているのではありません。むしろ「使わないものを借りて、長くその技を保っている」と言う。見ないと決めた広大な領域が、一点への集中を支えているのです。何をやらないかを決めることが、何をやるかを決めることでもあります。全部やろうとすれば、何一つ極まりません。
この章句が説くこと
捶鉤者六十年一つを見る見ないと決める集中を支えるもの
関連する章句
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『淮南子』道應訓大司馬の鉤を捶つ者、年 八十なるも、鉤の芒を失わず。大司馬曰く、「子は巧なるか、道有るか」と。曰く、「臣に守有るなり。臣 年二十にして鉤を捶つを好み、物に於いて視る無きなり。鉤に非ざれば察する無きなり」と。是を以て之を用うる者は、必ず弗用に假りて、以て長く其の用を得。而るに況んや持して用いざる者をや。物 孰れか濟らざらんや。故に老子曰く、「道に從事する者は、道に同じ」と。
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荘子・達生仲尼楚に適(ゆ)き、林中に出づ。痀僂(くる)なる者の蜩(せみ)を承(と)るを見る。猶お之を掇(ひろ)うがごとし。仲尼曰く、「子は巧なるか。道有るか」と。曰く、「我に道有り。五六月、丸を累(かさ)ぬ。二にして墜ちざれば、則ち失う者は錙銖(しし)なり。三を累ねて墜ちざれば、則ち失う者は十に一なり。五を累ねて墜ちざれば、猶お之を掇うがごとし。吾身に処るや厥株拘(けっしゅく)の若く、吾臂(うで)を執るや槁木(こうぼく)の枝の若し。天地の大、万物の多しと雖も、而も唯だ蜩の翼のみを之れ知る。吾反せず側せず、万物を以て蜩の翼に易(か)えず。何為(なんす)れぞ得ざらんや」と。孔子顧みて弟子に謂いて曰く、「志を用うること分かれざれば、乃ち神に凝(こ)る。其れ痀僂丈人の謂いか」と。
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『列子』黄帝篇仲尼楚に適き、林中を出づるに、痀僂者の蜩を承ること、猶お之を掇うがごときを見る。仲尼曰く、子巧みなるかな。道有るか、と。曰く、我に道有り。五六月、垸を纍ぬること二にして墜ちざれば、則ち失う者は錙銖なり。三を纍ねて墜ちざれば、則ち失う者は十に一なり。五を纍ねて墜ちざれば、猶お之を掇うがごとし。吾の處るや橜株駒の若く、吾の臂を執るや槁木の枝の若し。天地の大、萬物の多しと雖も、唯だ蜩の翼をのみ之れ知る。吾反らず側かず、萬物を以て蜩の翼に易えず。何を爲してか得ざらん、と。孔子顧みて弟子に謂いて曰く、志を用うること分かたざれば、乃ち神に疑たり。其れ痀僂丈人の謂いか、と。丈人曰く、汝は逢衣の徒なり。亦た何ぞ是を問うを知らんや。汝の所以を修めて、而る後に其の上を載言せよ、と。
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荘子・知北遊荘子曰く、「夫子の問いや、固より質(ただ)すに足らず。正獲(せいかく)の監市(かんし)に問うに狶(ぶた)を履(ふ)むや、下る毎に愈よ況(あき)らかなり。汝は唯だ必とする莫かれ。物を逃るる無し。至道は是(かく)の若し。大言も亦た然り。周・遍・咸(かん)の三者は、名を異にして実を同じくす。其の指は一なり。嘗みに相与に無何有の宮に游び、同合して論ぜば、終窮する所無からんか。嘗みに相与に無為ならんか。澹(たん)にして静かならんか。漠にして清からんか。調いて閒(かん)ならんか。寥(りょう)として已(すで)に吾が志、往く無くして其の至る所を知らず。去りて来たりて其の止まる所を知らず。吾已に往来して其の終わる所を知らず。馮閎(ひょうこう)に彷徨すれば、大知焉(ここ)に入りて其の窮まる所を知らず。物を物とする者は物と際(さかい)無し。而して物に際有るは、所謂物際なる者なり。不際の際、際の不際なる者なり。盈虚衰殺(えいきょすいさい)を謂うも、彼は盈虚を為して盈虚に非ず、彼は衰殺を為して衰殺に非ず、彼は本末を為して本末に非ず、彼は積散を為して積散に非ざるなり」と。
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荘子・知北遊不形の形、形の不形は、是れ人の同じく知る所なり。将に至らんとする所の務むるに非ざるなり。此れ衆人の同じく論ずる所なり。彼は至れば則ち論ぜず。論ずれば則ち至らず。明見は値(あ)う無し。辯は黙に若かず。道は聞くべからず。聞くは塞ぐに若かず。此を之れ大得と謂う」と。
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荘子・知北遊且つ夫れ博(ひろ)きも之れ必ずしも知ならず、辯ずるも之れ必ずしも慧ならず。聖人は以て之を断てり。若し夫れ之を益すも益を加えず、之を損するも損を加えざる者は、聖人の保つ所なり。淵淵乎(えんえんこ)として其れ海の若く、魏魏乎(ぎぎこ)として其れ終われば則ち復た始まる。万物を運量して匱(とぼ)しからざれば、則ち君子の道は、其れ外か。万物皆な往きて焉(これ)に資(と)りて匱しからず。此れ其れ道か。
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