荘子 / 知北遊
光曜問乎無有曰:「夫子有乎,其無有乎?」光曜不得問,而孰視其狀貌,窅然空然,終日視之而不見,聽之而不聞,搏之而不得也。光曜曰:「至矣!其孰能至此乎!予能有無矣,而未能無無也,及為無有矣,何從至此哉!」
新字:光曜問乎無有曰:「夫子有乎,其無有乎?」光曜不得問,而孰視其状貌,窅然空然,終日視之而不見,聴之而不聞,搏之而不得也。光曜曰:「至矣!其孰能至此乎!予能有無矣,而未能無無也,及為無有矣,何従至此哉!」
書き下し
光曜(こうよう)無有(むゆう)に問いて曰く、「夫子は有るか、其れ無有なるか」と。光曜問うを得ずして、孰(つらつ)ら其の状貌を視るに、窅然(ようぜん)空然(くうぜん)たり。終日之を視るも見えず、之を聴くも聞こえず、之を搏(う)つも得ざるなり。光曜曰く、「至れり。其れ孰か能く此に至らんや。予は能く有無なるも、未だ無無なる能わず。無有と為るに及びては、何に従いて此に至らんや」と。
現代語訳
光曜が無有に尋ねた。「あなたは存在しているのですか、それとも存在しないのですか」。光曜は答えを得られなかった。じっとその姿かたちを見つめてみると、奥深く、がらんとして空っぽだった。一日中見つめても見えず、聴いても聞こえず、叩こうとしても掴めない。光曜は言った。「これこそ極みだ。誰がここまで至れようか。私は『有るということが無い』状態にはなれるが、まだ『無いということも無い』状態にはなれない。『存在しないもの』にまで至るには、いったいどうすればよいのか」と。
解説
「無有」という名の存在に、光が問いかける一段です。見ても見えず、聴いても聞こえず、叩いても掴めない。何もないのです。それでも光曜は、その空っぽさに打たれます。「私は有ることが無い状態にはなれるが、無いということも無い状態にはなれない」。これは言葉遊びのようですが、深い階段があります。何もないと思っている状態には、まだ「何もない」という意識があります。その意識すら消えること。そこまで行けるかどうか。空っぽになったつもりの人は、まだ空っぽではないのです。