荘子 / 知北遊
無始曰:「有問道而應之者,不知道也。雖問道者,亦未聞道。道無問,問無應。無問問之,是問窮也;無應應之,是無內也。以無內待問窮,若是者,外不觀乎宇宙,內不知乎太初,是以不過乎崑崙,不遊乎太虛。」
新字:無始曰:「有問道而応之者,不知道也。雖問道者,亦未聞道。道無問,問無応。無問問之,是問窮也;無応応之,是無内也。以無内待問窮,若是者,外不観乎宇宙,内不知乎太初,是以不過乎崑崙,不遊乎太虚。」
書き下し
無始曰く、「道を問いて之に応ずる者有るは、道を知らざるなり。道を問う者と雖も、亦た未だ道を聞かず。道は問う無く、問いは応ずる無し。問う無きを之に問うは、是れ問いの窮するなり。応ずる無きを之に応ずるは、是れ内無きなり。内無きを以て問いの窮するを待つ。是(かく)の若き者は、外は宇宙を観ず、内は太初を知らず。是を以て崑崙を過ぎず、太虚に遊ばず」と。
現代語訳
無始は言った。「道について尋ねられて、それに答える者は、道を知らないのだ。道について尋ねる者もまた、まだ道を聞いていない。道には問いがなく、問いには答えがない。問うべきでないことを問うのは、行き詰まった問いだ。答えるべきでないことに答えるのは、中身のない答えだ。中身のない答えで、行き詰まった問いに応じる。そのような者は、外は宇宙を見渡せず、内は太初を知らない。だから崑崙山を越えられず、大いなる虚空に遊べないのだ」と。
解説
問う者も、答える者も、どちらも分かっていない。この容赦ない断言が響く一段です。問いを立てた時点で、すでに道の外にいる。そして答えた時点で、さらに遠ざかる。「行き詰まった問いに、中身のない答えで応じる」。私たちの多くの議論は、まさにこれかもしれません。問いの立て方が間違っているのに、その上で熱心に答えを探す。だから堂々巡りになる。行き詰まった時、答えを探すのではなく、問いそのものを疑う。それが、この一段の教えです。
この章句が説くこと
道無問問無応問いを疑う堂々巡り問いの立て方
関連する章句
-
荘子・知北遊是に於いて泰清(たいせい)無窮に問いて曰く、「子は道を知るか」と。無窮曰く、「吾は知らず」と。又た無為に問う。無為曰く、「吾は道を知る」と。曰く、「子の道を知るは、亦た数(すう)有るか」と。曰く、「有り」と。曰く、「其の数は若何」と。無為曰く、「吾は道の以て貴かるべく、以て賎しかるべく、以て約すべく、以て散ずべきを知る。此れ吾の道の数を知る所以なり」と。泰清、之の言を以て無始に問いて曰く、「是(かく)の若くんば、則ち無窮の知らざると、無為の知るとは、孰(いず)れか是にして孰れか非なるか」と。無始曰く、「知らざるは深し。之を知るは浅し。知らざるは内なり。之を知るは外なり」と。是に於いて泰清中(うち)に歎じて曰く、「知らざるは乃ち知るか。知るは乃ち知らざるか。孰か不知の知を知らん」と。無始曰く、「道は聞くべからず。聞けば非なり。道は見るべからず。見れば非なり。道は言うべからず。言えば非なり。形を形とする者の不形なるを知るか。道は名に当たらず」と。
-
荘子・知北遊知(ち)北のかた玄水の上に遊び、隠弅(いんふん)の丘に登りて、適(たまた)ま無為謂(むいい)に遭う。知、無為謂に謂いて曰く、「予(われ)若(なんじ)に問うこと有らんと欲す。何を思い何を慮らば則ち道を知らん。何に処り何に服せば則ち道に安んぜん。何に従い何に道(よ)らば則ち道を得ん」と。三たび問うも無為謂答えざるなり。答えざるに非ず、答うるを知らざるなり。知問うを得ず、白水の南に反り、狐闋(こけつ)の丘に登りて、狂屈(きょうくつ)を睹(み)る。知、之の言を以て狂屈に問う。狂屈曰く、「唉(ああ)、予之を知れり。将に若に語らんとす」と。中(なか)ばにして言わんと欲して其の言わんと欲する所を忘る。知問うを得ず、帝宮に反り、黄帝に見えて焉(これ)を問う。黄帝曰く、「思う無く慮る無くして始めて道を知る。処る無く服する無くして始めて道に安んず。従う無く道(よ)る無くして始めて道を得」と。
-
荘子・知北遊荘子曰く、「夫子の問いや、固より質(ただ)すに足らず。正獲(せいかく)の監市(かんし)に問うに狶(ぶた)を履(ふ)むや、下る毎に愈よ況(あき)らかなり。汝は唯だ必とする莫かれ。物を逃るる無し。至道は是(かく)の若し。大言も亦た然り。周・遍・咸(かん)の三者は、名を異にして実を同じくす。其の指は一なり。嘗みに相与に無何有の宮に游び、同合して論ぜば、終窮する所無からんか。嘗みに相与に無為ならんか。澹(たん)にして静かならんか。漠にして清からんか。調いて閒(かん)ならんか。寥(りょう)として已(すで)に吾が志、往く無くして其の至る所を知らず。去りて来たりて其の止まる所を知らず。吾已に往来して其の終わる所を知らず。馮閎(ひょうこう)に彷徨すれば、大知焉(ここ)に入りて其の窮まる所を知らず。物を物とする者は物と際(さかい)無し。而して物に際有るは、所謂物際なる者なり。不際の際、際の不際なる者なり。盈虚衰殺(えいきょすいさい)を謂うも、彼は盈虚を為して盈虚に非ず、彼は衰殺を為して衰殺に非ず、彼は本末を為して本末に非ず、彼は積散を為して積散に非ざるなり」と。
-
荘子・知北遊不形の形、形の不形は、是れ人の同じく知る所なり。将に至らんとする所の務むるに非ざるなり。此れ衆人の同じく論ずる所なり。彼は至れば則ち論ぜず。論ずれば則ち至らず。明見は値(あ)う無し。辯は黙に若かず。道は聞くべからず。聞くは塞ぐに若かず。此を之れ大得と謂う」と。
-
荘子・知北遊知、黄帝に謂いて曰く、「吾は無為謂に問う。無為謂は我に応ぜず。我に応ぜざるに非ず、我に応ずるを知らざるなり。吾は狂屈に問う。狂屈は中ばにして我に告げんと欲して我に告げず。我に告げざるに非ず、中ばにして告げんと欲して之を忘れたるなり。今予は若に問う。若は之を知る。奚(なん)の故に近からざるか」と。黄帝曰く、「彼の其れ真に是なるは、其の知らざるを以てなり。此の其れ之に似たるは、其の之を忘るるを以てなり。予と若とが終に近からざるは、其の之を知るを以てなり」と。
-
荘子・知北遊弇堈弔(えんこうちょう)之を聞きて曰く、「夫れ道を体する者は、天下の君子の繋がる所なり。今、道に於けるは、秋豪の端、万分にして未だ一を処(お)くを得ず。而も猶お其の狂言を蔵して死するを知る。又た況んや夫の道を体する者をや。之を視るも形無く、之を聴くも声無し。人の論ずる者に於けるは、之を冥冥と謂う。道を論ずる所以にして、道に非ざるなり」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る